それって食べられるの?

それって食べれるの?

「それって食べれるの?」

ぼくが小学生の頃、いつもそう聞くヤツがクラスにいた。 新しい単語が耳に入ったとき、コイツにとっての最大の関心は、それが 「食べられるかどうか?」 だけであった。 1970年代はいまよりはるかにハングリーな時代だったけど、「明日になればなんとかなるさ」的な明るい雰囲気もあったと思う。 しかし彼にとって、「新しいおもちゃの名前」も、「西城秀樹の新曲名」も、「仮面ライダーにでてくるショッカーの怪人名」も、「食べられない」ことがわかると、とたんに興味を無くしてしまうのだ。 思えばヘンなヤツだった。 けれども、ぼくが「違和感を覚える人間」はなにも彼に限ったことでは、ない。

同様に、なにかある度に「それっていくら?」って聞くヒトタチがいる。「コスト意識が高い」のならビジネスピープルとしては優秀だとしても、なんでもそこから評価をはじめようとする人間は、ぼくはどうも苦手だ。 香港人や中国人に嫌悪感を持ってしまうのはこういう質問を受けるときだ。 民族性なのかどうか知らないが、他国のヒトタチに比べ、香港に住んでいるとこの手の質問を受けることがうんざりするほど多い。 「品定め」をされているようにも思え、気持ちがふたぐ。

「高いから優れているのか」、「安いから買うのか」 ものの価値判断を「値段」でしか測れない人間を、ぼくはどこか軽蔑してしまう。
ぼくが新しいことを始めようとすると、周りの人間の一部に、
「それってお金になるの?」
と聞くひとがいる。 ビジネスならともかく、趣味だろうが何だろうが「金にならない」とわかると、「はっきり言ってムダ」だと吐き捨てる人もいる。
こんなふうに、人や物への関心を「お金」で測ろうとするヒトタチって、ぼくが見る限りあまり幸福そうにみえない。

ぼくが考える「幸福感」とは、「夢中になれること」があるかないかだ。 「どれだけ夢中になれるか?」あるいは、「いくつ夢中になれるものを持っているか」。 はたから見れば、「仕事ばかりして大丈夫かなぁ・・・」と思われていても、本人が「夢中になれる仕事」があるなら、その人は幸せだし、「その恋、やばいんじゃないの?」と周りからヒヤヒヤされても、「本人が夢中」なら、それは幸せなんじゃないかと思う。 ボランティアで人や動物の介護に精を出す人も、たいへんな割にどこか幸せそうだ。
もちろん、「自分の幸せ」が「他人の幸せ」の犠牲の上に立脚してるのは、「宇宙の法則」に反することを肝に銘じておくべきだけど。


「それって食べれるの?」
「それっていくら?」
「それってお金になるの?」

そう聞くヒトタチはどこか、「ものの価値」を本当に自分自身で測ることを放棄してしまってるんじゃないか?と、思う。 「判断基準」を価格に照会することは、べつにあなたでなくてもできる。 だから、「その他大勢」でもわかる価値観でないと不安になってしまうのは、自分をどこか信じきれないのかなあ? と、思わずにはいられない。

「面白そう」、「楽しそう」 とあなたが直感的に感じるのなら、まずそれをするべきだと思う。 「高そうだから」、「時間がないから」、「後で後悔しそうだから」というのは、自分への「言い訳」になっていないかどうか、ひとつじっくり考えてみて欲しい。 あなたの直感を信じるのなら、「方法」はいくらでもあるはずだと思う。


あなたの今の、
またはこれからやりたい 「夢中」 ってなんでしょうか?
よければこっそり、教えてください。





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