とらうま

孤独な小学生のひとりごはん

ぼくがまだ6つか7つのころ、ひとりで夕ご飯を食べていた。母親はいない、父親は夜遅くでないと帰ってこない。妹はいたが、別居中の母親のもとで暮らしていた。
そんなわけで、陽が暮れかかる公園に、ぼくの名前を呼びに来る母親も兄弟もいない。友達がひとり、そしてまたひとり母親に連れられ家路についた後、ひとり残ったぼくは、呼ばれてもいないのに「はーい」と返事をしてから腰を上げてみせた。そして長い影を踏みながら家へと向かい、合い鍵を使ってお勝手口のドアを開ける。
入ってすぐに目にはいるのは、椅子の背にひっかかる母親が残していったエプロン。それを不器用にカラダに巻き付けてから食事の支度をするのがぼくの習慣だった。油を塗ったフライパンを熱してからタマゴを焼き、冷蔵庫から梅干しやハムを取り出して一つずつテーブルへと並べる。それらを、ジャーの中にある少し黄色くなったご飯といっしょに食べた。少しでも豪華にと、おかずはすべて別々の皿にのせた。梅干し一個も、おかかも、それぞれが皿に盛りつけてある。運がよければ父親がスーパーで買ってきた「コロッケ」や「鯖の缶詰」を冷蔵庫に見つけることがあった。それらもやはり一枚一枚皿にのせては、冷たいまま食べた。夕日に染まる家並みを窓の外に眺めながら、黙々とそれらを食べた。
そんなとき、近所からカレーの匂いが漂ってくると、どうしようもなく切なくなった。ぼくの今のカレー好きは、このとき育まれたんじゃないかと、今にして思う。「カレーライス」は幸せな家族の象徴として、深く心に刻まれているのかもしれない。

食事が終わると、すぐに立ち上がってあわてて汚れた食器を洗う。エプロンをはずして椅子にかけると、居間へ歩いていってテレビをつけ、その前で横になる。チャンネル争いとは無縁だったが、見たい番組はそれほど多くはなかった。やがて眠くなると二階の自分の部屋に戻り、しいたままの布団に潜り込んで眠った。眠る前、少しだけ本を読んだかもしれない、あるいは読まなかったかもしれない。少なくとも「ダレか」が幼いぼくのために本を読んでくれたことは、記憶にない。たまに、居間の絨毯の上でそのまま眠りこけていることもあった。父親は夜遅く帰ってくると、ぐったり絨毯の上で眠るぼくを見つけ、「しょうがねえなあ」とぼくを両手で抱え、部屋の布団まで運んでいった。「狸寝入り」のぼくは、その瞬間がとてもスキでくくくっと笑いをこらえるのに大変だった。

ぼくが6歳の時、父親はまだ27歳だった。若くして、ローンを組んで持ち家を建てた。そこに親子4人が仲良く暮らせる城を築こうとしたのだろう。他のダレよりも早く、「一国一城の主」になりたかったのかもしれない。
けれども家が建ち終わったとき、母親と妹はもうそこにはいなかった。そして、若い父親と小学生になったばかりの息子だけが6つの部屋を専有した。「仏像作って魂入れず」、そんな城の主(あるじ)は実は「孤独な小学生」だった。父親は朝早く出かけ夜遅くに帰ってきた、日曜ですら一日の半分は家にいなかったのだ。
毎朝、父親が始動する車のエンジン音、それがぼくの目覚まし時計だった。布団をはねのけるとぼくは玄関まで走っていき、ガレージを出ていく父親が運転する車に手を振った。

父親の整髪料の匂いがうすく残る洗面所、そこで水で顔を洗う。それから朝食を取るために台所へ、テーブルにはごくたまに父親の歯形の付いたトーストが残っていたりした。ぼくは自分のためのトーストを焼き、やかんでお湯を沸かし、「森永ココア」を溶かしてて飲んだ。牛乳で飲んだ方がおいしいことを、ぼくはこのときはまだ知らなかった。自分のトーストを食べてしまうついでに、父親の残した歯形トーストもかじってみた。こうして父親の足跡を踏み重ねるように、登校までの時間を過ごした。

風呂にも入らず毎日同じ服を着て登校してくるぼくを、まわりの生徒は「ただの貧乏な子供」というふうにみていたかもしれない。そんなぼくを担任の先生はとても心配してくれたようだ。この心優しい女先生は、他の生徒には内緒で替えの制服を自宅で洗い、校舎の裏でそっとぼくに手渡してくれたりもした。
ある日、当時好意を寄せていた女の子に、「あなた、臭いわよ」って言われた。

小学生の分際でもそういうのはやはり傷つく。その時をきっかけに、ぼくは定期的に風呂にはいることを決心した。父親にねだって風呂の沸かし方を教えてもらい、苦労してそれを実行した。1970年代の日本はまだ、「瞬間湯沸かし器」など夢の夢だった。種火を起こしガスで引火させ、風呂桶にためた水を一定時間わかす。タイミングや水の量次第で、熱湯になったりほとんど水のままであったりした。
ある日、「自分で風呂を沸かしている」ことを作文の時間に書いたところ、学校で大騒ぎになった。父親が呼び出され、「火事を起こしたらどうするんですか!」とたっぷり説教されたという。無理もない、町内の火事の原因のトップは「風呂炊き時の不注意」だった時代だ。
以来、ぼくは歩いて30分もかかる銭湯へと通うことになった。すると今度は湯冷めが原因でインフルエンザにかかったりした。「臭い」か「火事」か「インフルエンザ」だ。こんなふうに、入浴をめぐって孤軍奮闘する小学生に、世間の風は心地よくなかった。


そのころのぼくはかなり無口だったようだ。無理もない。学校であったことを話す相手もいなければ、テレビを見て一緒に笑う相手もいない。宿題をしなくても怒られはしなかったけど、不思議なことに宿題はきちんとやっていた。「生活ノート」にも日記を書いていた。
「すべてのコミュニケーションは、自分の頭だけで完結する」などと、小学校低学年の分際でそんなことを感じていたぼくは、相当いけ好かないガキだったと思う。「話さなくても生きていける」環境なのだから、わざわざ話す必要を感じなかったのだ。「いつもひとりでエライわねえ」などと、会う度にぼくに声をかける近所のおばさんや店員たちが、わずらわしくて仕方なかった。


ある日、学校から家に帰ってみると、玄関に紙袋がおいてあることがあった。袋の中身は、漫画や服、お菓子やおもちゃ・・・。さっそく父親が休みの日に袋の中身を見せると、「だまってもらっておきなさい」と顔も向けずにいわれた。
それ以降も、「玄関の紙袋」は何度もあった。あとでぼくは、それは別居中の母親が誰かに使いをよこしておいていったのだと、知った。けれども、ちっともうれしくはなかった。ぼくは腹さえ立ってきた。母親はどうして、「漫画一冊」の代わりに、「シュークリーム一個」の代わりに、「怪獣の人形ひとつ」の代わりに、「手紙の一枚」、いや「書き殴りのひとつ」も一緒に袋に入れてくれなかったのか? 母親なんて必要ないと強がるぼくだったが、やはり気持ちのどこかで「母親の存在」を実感し、ぬくもりを確認しておきたかったのだろう。
たとえ授業参観日の教室の後ろから、ぼくだけを見ている人がいなくても。


そんなことから、いまでもひとりでごはんを食べていると、かつて母親のエプロンをカラダに巻いた小さな自分が、部屋の隅にぼうっと現れることがある。口を一文字に結び、汚れてぼさぼさの頭をゆっくり左右に振りながらごはんを食べている小さな男の子。そしてぼくに気づくと、箸を止め、じっとこちらをにらみ据えてくるのだ。

寂しさと憂いをたたえたその瞳に、ぼくは思わずぞおっとする。



だから、「ひとりごはん」は苦手なんです。