歴史博物館に行く

日本占領期展示コーナーの入り口

昨日の午後は、アンドリューと一緒にチムトンの「香港理工大学」へと出かけた。 そこの大学教授に、あるソフトウエアの検証をお願いしていたのだ。 打ち合わせが終わり、構内の建物を出ると、自動車道をはさんだ向こうになにやら大きなかまぼこ屋根がみえる。
「あれは・・・・?」
アンドリューは、ぼくのあごの先を目で追う。
「あれは博物館です。香港歴史博物館」
鼻孔をふくらまし、得意そうに彼は言う。 鼻毛が春風に揺れている。
「歴史・・・? おお、いいねえ!」とぼくは小躍りする。オフィスに戻らなくてはいけないが、少しぐらいならいいだろうと、彼を誘いそのかまぼく建物へと向かう。 時計を見る。
「5時前・・・どうか、まだ開いていてくれ」
果たして博物館は、かろうじて開いていた。5時に入館しめ切り、6時に閉館だという。入場料10ドル。
中にはいると、思った以上に館内は広く間接照明が効果的にオブジェを照らしている。 原始人だっている。 アホ面で展示物を眺めるアンドリューの横顔、どこか原始人に似てる。「彼もまた、歴史なんだなあ」と思えてくる。



【 ← アンドリューの先祖】
時間がないので先を急ぐ。原始時代から漢代、清代を経てアヘン戦争へ。館内の移動はまた、時代の移り変わりでもある。時計を見る、あと30分しかない。ぼくは、その先の「日本占領期」へと小走りになる。そこの展示コーナーがお目当てだったからだ。アンドリューはいつの間にかいない。たぶん、「清朝」あたりでトイレにでも行ってしまったのだろう。
「日本占領期」の展示室はどこか薄暗い。パンフレットを見ると「防空壕」をイメージしているそうだ。「3年8ヶ月の暗黒時代」と書かれている。ムリもない、戦時中なのだ。1941年12月8日から18日間、日本軍はここ香港を統治していたイギリス軍と激しく戦かい、そして勝利した。戦闘機の爆音や砲撃音、爆弾の落下音がスピーカーから流れている。 160万人いた住民は戦争直前には100万人まで減少し、日本の敗戦時には60万人まで減っていたという。 これは戦渦に巻き込まれて死亡したというよりは、巻き込まれるのをおそれて、大陸やその他へ避難したと思われる。当時の様子を映すミニシアターもある。 英国人夫婦がじっとスクリーンを見つめていた。ここのコーナーは日本人であるぼくに、心ふたぐ思いをさせるに十分だ。その時代、日本人は「敵」であり、「侵略者」であった。 台湾や韓国、満州のように、日本人が統治した事がきっかけで近代工業国の足がかりとなった要素もなければ、パラオサイパンのように軽工業や食料産業が育まれることもなかった。日本人は公共施設を建設したのではなく、すでにあった建物を占拠し、これを利用した。

▼ 『香港占領地総督部』の看板

当時占領していた日本軍が今もセントラルにある香港上海銀行正面玄関にかかげていたもの。これまで未公開だったという。

アメリカの日本占領時代と同様、当時の日本軍が香港でインフラを施すには3年8ヶ月の歳月はあまりにも短かったし、近代国家の礎はイギリスがすでにやってしまっていた。また、香港住民にとって「日本軍」は招かざる客であった。そんな暗黒時代ではあったが、ぼくはどこかホッとする光景を求め、展示品を見ながら、あたりをさまよう。



▼ 『ビクトリアピーク』に立つ日本歩哨兵

今でこそ、「100万ドルの夜景」などといわれるピークからの眺めも、1942年当時はこんな様子でした。しかし絶景であることには変わりないのでしょうか、兵隊さんもぼんやり景色に見とれています。【写真左下は現在のピークからの眺め】

▼ 『ヘネシーロード』 凱旋する日本兵

「そごう」や「三越」も沿道にあり、香港でもっとも自動車交通量の多い通りの一つである、ヘネシーロードです。 パレードに使われるくらいですから、当時もそれなりに重要な通りだったのでしょう。しかし 軍馬にまたがる日本の将軍や将校を出迎えるのは兵隊ばかり。市民が写っていないのがどこか寂しい風景です。【左下は現在のヘネシーロード、そごう前付近】

▼ 『スターフェリーの時計塔』 要塞を突破し進軍中の日本軍

今では、香港島側の夜景を見ようとカップルや観光客が絶えないプロムナード付近ですが、60数年前、そこは戦場でした。攻めはいる日本軍の写真、ひととおり激しい戦闘は終わったのか、姿勢を高くしたまま進軍しています。今もある時計塔ですが、このときどんな思いであたりを見下ろしていたのでしょうか?【写真左上は現在の時計塔】

▼ 『戦時中のポスター』
   左:市民に節約を促進 右:日本語習得を促進

左:見出しが日本語であることから、当時日本人もそれなりに住んでいたことが伺えます。慢性的な物資不足のため、内地と同じく、「贅沢は敵だ!」とされていたのでしょう。 
右:日本語を習うことを勧めるポスターです。「日華提携は日本語から!!」とあります。 現地の人の日本語力に頼ろうとする姿勢は、今の駐在員とそれほど変わらないのかもしれません。

香港に軍政を敷く日本軍。きっと抗日ゲリラも多かっただろうから、進駐する日本兵は、銃をおろすヒマもなかったのかなあと思う。 館内の説明文も淡々と「人々は怯え、恐怖の中で送った悲惨な日々」とある。
しかし、どこか「ホッとする風景」はやはりそこにあった。それは、いまなお市民の足として活躍しているスターフェリー内の風景である。



▼ 『スターフェリー』市民に混じって客席に納まる日本兵

矢印は、軍服を着ていなければ、今の駐在員と変わらないフツーのおっさんです。 めずらしそうに船窓から景色を眺める日本兵もみられます。軍帽から察するに、海軍将校も陸軍兵も同じようにおとなしく座ってます。威張り散らしている様子はなさそうです。肝心なのは、そのまわりに当たり前のように座っている香港市民。日本兵を前に怯えている様子は、それほどなさそうです。通勤なり、通学なり、買い出しなりの日常を、淡々と過ごしている光景がそこに見られます。
あえて危険を感じるとすれば、中央の黒サングラスの男・女くらいのもの。なんだか、辺りに危険なオーラを発しているじゃあ、ありませんか。

「ウヮーン、ウヮーン、ウヮーン・・・」
空襲警報ではない。閉館を知らせるサイレンだ。 いつのまにかそばにいたアンドリューに促され、ぼくは博物館を後にする。建物を出たとたん、ムっとまとわりつく空気。 今日の香港は久しぶりに暑い。
ラッシュ時の自動車道で停止している二階建てバス。車体一面にペイントされた「出前一丁」の広告。その前を、「SONY VAIO」とプリントされたパソコンバッグをさげて男子学生が横切っていく。 オフィスに戻ろうとタクシーを拾う。トヨタクラウン。フロントガラスの内側に「JAPANタクシー」とステッカーが貼られていた。
写真に写っていたあの日本兵、今の香港にタイムスリップしても、「日本が敗戦した事実」に気づきもしないのだろう、とふと思った。



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