まじめすぎる社会

Smokers’ Style で、一服してみる

街は大騒ぎといった「反日デモ
その影響で、在中日本人にとっては、ずいぶんと肩身の狭い思いを強いられそうだ。
「肩身が狭い」といえば、「喫煙者」だってそういえるかもしれない。
世界的に健康志向が強まる中で、社内や車内・機内、各種公共施設は次々に禁煙エリアの拡大で、「スモーカー」たちは建物や乗り物の外に追いやられ、仕方なく「通り」で、あるいは建物の陰で、ひっそりと紫煙をくゆらせることとなった。さらに今度は、「外でも吸っちゃだめ」ってことになり、「スモーカー」たちへの迫害はとどまることを知らない。
「ああ、ダメ!ここで吸っちゃ・・・」そう言われ、ぼくはあわてて口にくわえたそのタバコをポケットに戻す。ここは秋葉原駅、電気街入り口そばの自動販売機の陰。「歩きタバコ」ではないし、周りの人に煙がかぶらないよう、人けのない隙間で、「ちょっと一服」しようとしたときだった。
「以前私は、まさにこの場所で、タバコ罰金とられたんです」
同僚のT氏は、1000円札を係員の手のひらへ「叩きつけるように」して払ったのだという。
「じゃ、みんなはどこで吸ってるの?」と訊くぼくに、「こっちですよ」と案内されたのは、大通りに面したビルの一階。まるで銀行のような入り口に”Smokers' Style”と英語で書かれていた。
中に入ると、大勢の人がモクモクとタバコを吸っている。思いのほか開放的で垢抜けた内装。しかしそれとは対照的に、スモーカーたちは一様に背中を丸め陰湿そうにタバコを吸っている。老い若きも男も女もいる。外人も混じっている。ノートPCを開くもの、本を読むもの、呆けたように窓から通りを眺めているもの。みんなどこか世捨て人のような「負のオーラ」を放ち、立ち込める紫煙の中で、かげろうのようにゆれている。
「なんだか、強制収容所のようだねえ」
そうつぶやくぼくに、T氏は目を細めながらタバコを灰皿に押しつける。
「健康に悪いんだから、やめればいい」とも思うし、「吸うほうが悪いんだ」とも思う。
だが一方で、どうして人類は「喫煙」という習慣を、何千年も続けているのだろう?とも思う。


高速輸送システムとネットの発達。それは地球を狭くしたがゆえに、どこか「閉塞感をもたらした」ともいえる。「悪」というものをとても「単純な理由」できめてしまい、該当する人間や国や宗教や慣習を責め、また攻める。それはどこか「子供っぽい行為」ではないか?と思う。「正しい答え(のようなもの)」を、あまりにも早く決めてしまってはいないか?と。いまだ泥沼の「イラク戦争」、今回の「反日デモ」への”根拠”や”非難”、そして「喫煙」への非難は、どこか、つながっている。
きっとみんな「まじめすぎる」んだとおもう。「まじめ」は良いことだ。けれども「まじめすぎる」っていうのは良くない。つい、「まじめ」でない人を責めてしまうからだ


世界がどんどん狭くなる現代、「まじめすぎる」ってのは窮屈で仕方がない。と、思いませんか?




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