ブログの秘める起爆力

既存メディアのバイアスをぶちこわすブ

「記者の取材内容」
そして
「掲載記事内容」
このふたつの間に、少なからず相違があったことは、前日の日誌の通り。 つまり、被取材者(インタビューを受ける人)や世の中のニュースは、それを伝えるメディア側によって、いくぶんあるいは大分脚色されてしまうということだ。これを「バイアスがかかった記事」という。 そしてここが肝心なのだけど、「バイアス」のかからない商用メディアはこの世に存在しない。
正確には、生存できない。
ほんの10年ほど前まで、ぼくたち一般庶民は、新聞やテレビが報道する事件や出来事を、そのまま受け入れるしかなかった。
あるニュース記事に対して、「ちょっと違うんじゃ・・・」、「私は、こう思うわ・・・」と思ったとしても、その質疑は、周りの家族や友人に漏らす範囲でしかなかったのだ。しかも、その家族や友人もやはり同じソースでそのニュースを知ったわけだから、「でも新聞にもそう書いてあったし・・・」で、話は終わる。そして、そのとき感じた「私の違和感」は、どこにもたどり着かないまま忘れられていく。気の利いた読者は、投稿欄にはがきをだす。しかし、投稿欄に掲載されるのは、「メディアにとって都合のいい投稿文」のみだ。
「ある有名人の離婚騒動」、ぼくたちはつい、そんな「自分たちの生活に何の影響も及ぼさない事件」に関心を持ってしまう。そして、「XXって男(ヤツ)、ひどいよなー」とか、「世間の同情をひこうとしてるだけよ、あのオンナ」などと、批評してみせる。しかしそれこそが、メディアが誘導したい世論の到達点であったりする。つまり、「XXはヒドイ男です、しかも変態です」とは、メディアは報道しない。読者や視聴者が自ら、「XXはひどい、しかも変態かもしれないぞ」と思えるよう、報道してみせる。まるで、紙面を飾る「文字の大きさ」が「真実と正比例」しているかのように。
本当のところが知りたい
これは、人間の本能ですらある。自分に関係のあることもまったくないことも、等しくヒトは「真実」のありかを確認したい動物だ。これに対し、各メディアは、
「我々は真実を伝える義務がある」
と公言する。
しかし、本当のところどうなのだろう?他の人たちはどう思っているんだろう?さらに「当の本人たちは実際のトコロどうなんだろう?」と、真実への追求が始まる。
これが、メディアリテラシーの源泉となる
あのホリエモンをして、第三のインターネット革命と言わせた「ブログ」。21世紀に入って数年過ぎた現在、「ネットでニュースを見ない日本人」のほうがマイナーとなってしまった。いまや、一つのニュースに対し、複数のメディアで確認することは慣習化しつつある。ネットで発信されているニュースの中には、「当の本人達の意見が直接書かれている」サイトすらある。
それをぼくなりに、ささやかながら証明して見せたのが、「今回の雑誌取材」である。取材の話が来たとき、「コレは使える」と思ったぼくは、りっぱな確信犯であった。

本来、メディアとは「報道を伝える仲介者」であるべきだと、ぼくは思う。そこにバイアスをかけ「世論操作」するなど、「あってはならないこと」だと強く思う。記者の中には、真摯に事実を報道したいと奮闘努力する者もいるが、編集デスクの網にかかってしまえば、その意志は読者には伝わらない。そのまま、闇に葬られてしまう。 編集デスクの中にもやはり、真摯に事実を追求したいとする。
しかしこんどは、スポンサーがそれを許さない。
「真実を伝えたい者」と「真実を知りたい者」の間に立ちはだかる壁
これをぶちこわすのが、ネットであり、「ブログ」だとぼくは思う。真実を伝えたかった記者は、自らのブログでこれを書けばいいことだ。自分の意志に反して誤報道をされた芸能人は、真実を自分のブログで明かせばいい。一般の読者はそれらを読んで、自らのメディアリテラシーのレベルアップをするまでだ。
「編集デスク」からも「スポンサー」からも自由である「個人ブロガー」は、思うことを伝え、情報共有することが出来る。 コメント欄に書き込まれる意見もまた、「本当のことが知りたく、伝えたい」ヒトタチの本能の集まりだ。
そして、人間の「真実を知りたい」という本能にメスを入れる者は例え国家であってもつぶされる。これはかつての東欧諸国やソ連の崩壊でも立証されている。 いまだ、コレを続ける某国。ネットに数万人のサイバーエージェントをはびこらし、彼らの考える「危険サイト」を血眼になって捜し、これをつぶし、またはアクセスできないよう妨害する。 この活動こそが、ネットの繁栄如何を、国家の存続問題だと考えている「何よりの証拠」ではないだろうか。しかし、繰り返すが、
人間の本能にメスを入れる者はつぶされる

「個人の公開日記」から派生したブログだけど、その可能性はメディアのバイアスからヒトビトを解放させ、さらにはこれに介入する国家の存亡すら危うくさせる起爆力を秘めているのだ。

料理日記を見て、同じモノが食べたくなった」
「旅行日記を見て、旅に出たいと思った」
「映画日記を見て、映画が見たくなった」
「恋する日記を見て、恋をしてみたくなった」 ・・・

そんなふうに、見たダレかが「楽しいことを始めたくなる」ブログ
って、よいと思いませんか?




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