なおきん、90歳に会う

この「香港イラ写日誌」は、日本人のみならず、「日本語を解す外国人」や、日本語はわからないけど、「"イラ写"見物の外国人」だって、いらっしゃる。 外国人の中には、当然ながら香港人の方が少なくない。
ある日、そんな香港人読者のひとりから、おたよりをいただいた。

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ジェニーと申します。 なおきんさんは"歴史に興味がある"ようなので、一度私の祖父に会ったら喜ぶと思います。私の祖父は前の日、90歳になりました。とても元気です。祖父は、"壹週刊の記事"で、なおきんさんを知っています。【メールからの抜粋】

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会わないわけにはいかないだろう。 ぼくはさっそくジェニーさんとコンタクトをとり、こうして先日、ぼくはこのおじいさんと会えるよう、アレンジをお願いした。

たいへん失礼なことに、ぼくは直前のミーティングが長引き、待ち合わせの場所に15分ほど遅れて到着した。 「先に食事をしていてください」と、電話連絡を入れていたにもかかわらず、おじいさんとジェニーさんは、料理の注文もせず、じっとぼくを待っていてくれた。テーブルには水とメニューが置かれている。
「こんにちは」と互いに握手をし、カンタンに自己紹介を交わす。 ジェニーさんはちょっと日本語がしゃべりにくそうだったので、会話はすべて英語でおこなった。 おじいさんはとてもわかりやすい英語をしゃべるのだ。おじいさんの名前は"徐さん"、という。

何よりもまず、徐さんは、"90歳"にはとても見えない。 「67歳です」と言われれば、「そうですか、ご達者ですね」と自然に応対してしまうくらいだ。 目や耳もハッキリしている様子だし、手に震えはない。 そしていつもニコニコしている。途中、トイレに立たれるが、足下はしっかりされ、背筋をピンとのばして歩かれる。もちろん、杖もついていない。
「彼は5階にある部屋に、もう40年も暮らしてるんです。」とジェニーさんはいう。 意味を掴みかねていると、
「そのアパートにはエレベーターがないんです。」
てことは、40年間毎日階段をつかって上り下り・・ ( ̄□ ̄;)!!

「私は1942年の一年間、軍属*1として日本人と働いていました」
"グンゾク"と日本語で徐さんは言う。このセリフにぼくはチョット緊張する。 「日本人はヒドイことをした」と言われそうだったからだ。しかし徐さんは続けて、
「彼らはとても親切で礼儀正しかった。 アリマさんというひとにはたいへんお世話になった」 といわれ、ぼくはちょっとホッとしつつも、
「しかし香港の人は、当時の日本軍をずいぶん恨んでいるのではないですか?」、とぼくはあえて"火中の栗を拾って"みる。
「いいですか?当時の日本人は3種類いたんです」
「本土系日本人、朝鮮(韓国)系日本人、台湾系日本人の3種です」
"皇民化政策"だ。当時の日本は植民地としていた朝鮮半島や台湾に住む民衆を、日本人へと同化しようとした。 日本語を公用語とし、(強制ではないにせよ)創氏改名を進めた。台湾は1895年、朝鮮半島は1910年、以来彼らは"日本人"として生まれ、育っていったのだ。好むと好まざるに関わらず。それは1945年の日本の敗戦まで続いた。
「本土系日本人はとても正義感が強く、りっぱでした。その点、朝鮮系日本人はとても恐ろしかった。 市民に危害を加えていたのはほとんどが朝鮮系日本兵、または台湾系日本兵でした」
初めて耳にしたことなので、ぼくは何度か確かめる。
「その、本土系日本兵は、現地の人々に危害は加えなかったんですか?」
「私は日本海軍のドックで駆逐艦巡洋艦の整備士として働いていました。私の上司は本土系だったので幸運でしたが、仲間の上司は朝鮮系だったので、とても可愛そうでした」
徐さんの言うことがもし本当なら、"教科書の教えない歴史"を見る思いだ。いまでは「被害者として」声高に日本に賠償を求め謝罪を求める韓国・北朝鮮人。 しかし彼らも同様に、「日本兵」の姿をし、香港や中国各地で残虐なことをしてはいなかっただろうか?
「ミニタリーポリス(憲兵)は本土系日本兵だと聞いています。彼らはこうした、市民に危害を加える朝鮮系日本兵や台湾系日本兵を、逮捕していました。」
それから、食事が始まった。 徐さんはスパゲティを器用にフォークですくい口の中に入れる。 見たところ歯も丈夫そうだ。
こうしてしばらくの間、話をやめて食事に専念した。 徐さんもジェニーさんもとても上品に食事をする。音も立てないし、ゲップもしない。 徐さんがナプキンで口をぬぐう瞬間を狙って、ぼくは一つ質問をした。以前から知りたかったことの一つだ。

「戦前、英国は香港同様、インド、ビルマ(現ミャンマー)、マレー半島らも植民統治していました。しかし、それらの国は戦後次々に独立戦争を起こし、そして独立しました。なぜ香港はその後もずっと英国に統治されることを望んだのですか?」
徐さんは、少し考えている様子だった。メガネを取り、布でレンズをふく。ちらっと天井を仰いでから、再びそれを元に戻す。
香港人はもともと、国を持たないヒトタチだからです。もともとない土地を、戦争まで起こして奪おうとは思いません。 家族が平和できちんとゴハンが食べれれば、他に何が要りますか?」
ぼくは黙って聞いている。ジェニーさんもだ。
「英国人は私たちに自由に商売ができるシステムを用意してくれました。 こんなに狭い国なのにおかげでこんなにお金が集まるシステムをです。同じコトは中国人には出来ないし、日本人だって出来るかどうかわかりません。」

徐さんの言われるとおりなのかもしれない。 結局ぼくは次に用意した質問、「97年以降、香港はかわりましたか?」をするのは、やめておいた。 "ロシア革命"より前に生まれ、"日中戦争"も"太平洋戦争"も、"国・共内乱"も、"文化大革命"も彼はその人生で経験している。 これらに比べれば、「中国返還」なんて、「軽い咳払い」程度にすぎない。

「おじいさんは、日本語も少し話せるのよ」 と、ジェニーさん
「へぇ、そうなんですか? じゃ、何かしゃべってください」
「コレハ、ホンデス」、「タバコヲクダサイ」、「ゴクローサマデシタ」
「現地の人々は、日本語クラスに通っていました。仕事の後、毎日1時間勉強しなくてはいけませんでした」
そういえば、"歴史博物館"では、"日本語を学ぼう"という、ポスターも展示されていた。

▼日本語学習を呼びかける当時のポスター

「それ、タダだったの? おじいさん」 ジェニーさんが口をはさむ。
「もちろんさ。 たくさんの中国人が勉強していたよ」
ジェニーさんは、現在日本語教室に通っているが、こちらはもちろんタダではない。
「なにしろ60年以上前のことだから、ほとんど忘れてしまったよ」
と徐さんは謙遜するが、こうして少しでも覚えていることの方がよっぽどすごい。
これは、そのころの写真です。 と徐さんは一枚の写真を見せてくれた。 20代のころの徐さん、なかなかハンサムだ。

▼徐さんの若い頃の写真 【1941年撮影】

続いて奥さんの写真も見せてくれた。 「看護婦の姿」、1943年に結婚したそうだ。 そのころはまだ、日本軍に占領されていた頃である。
「妻は、二年前に亡くなりました」
という。ってことは、60年間も共に暮らしてきたと言うことになる。なんて長い年月なのだろう? ジェニーさんが口を開く。
「おばあさんは、10年間闘病生活だったんです。 ずっと病院で寝たきりでした。 おじいさんは、くる日もくる日も病院に通い、奥さんを看病していたんです。」
10年間!! ぼくは耳を疑った。
「正確には10年と11ヶ月です。もし彼女が生きてくれていれば、今でも通っていましたよ。」
と、徐さんはそう、こともなげにいう。 ぼくは彼のアパートにエレベーターがついていないことを思い出した。 目の前で元気に笑っているこの老人は、77歳から88歳もの間、くる日もくる日も、病院に通い、奥さんの身体をふいてあげ、レンゲでお粥を食べさせ、力の入らない奥さんの手を握っては、今日あったことをニコニコと話して訊かせ、彼女を励ましていたという・・・。
▼いつも笑顔の徐さん

「・・・・・・。」


ぼくは、不覚にも落涙してしまった。なぜだか涙が止まらない。 90年とはまた、なんと長い年月なのだろう。 一日、そしてまた一日、この老人は日常を、あのアパートの長い階段のようにしっかりと踏みしめて歩いてきたのだ。 人が生きていくということは、それだけでもう十分にすごいことなのだ、と思う。
徐さんは、そんなぼくにハンカチを渡しながら、


「コレはハンカチーフデス」
といって、ニコリと笑った。


▼ 別れ際にツーショットを



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*1:実戦は行わないが、軍のために仕事をする人々のことをいう