国境をまたぐアーチ

1984年、ぼくは初めてベルリンへ行った

香港と深センを結ぶ一本の橋。 KCR ローウー駅を降り、香港の出国手続きが終わると、この橋を歩いて中国側の入国審査へ向かう。 左右に小川が流れ、周りを覆う鉄条網が見え、監視塔が見え隠れする。 どぶ川の臭いが風に運ばれ、前を歩く男のシャツの、雑巾のような悪臭がしばらく漂う。 その川の名前をぼくは知らないが、その光景を見る度、「ベルリン」を思い出すことがある。 まだ、東西に分断されていた時代のベルリンの風景をだ。

初めてベルリンを訪れたのは1984年。 当時ドイツはふたつ、存在していた。 西ドイツと東ドイツ。 ベルリンは東ドイツの真ん中に位置していたが、このベルリンも東西に一つずつ存在していた。 もとは「一つの国」だったのに、2つに分断されてしまった国。西の人々は自由に東西を行き来できたが、東の人々は60歳を越えなければ、西へのビザの発給が許されなかった。 ベルリンの壁が突然出現したとき、たまたま東ベルリンに出張していた夫は、そのまま東ドイツ人になり、西ドイツに残した家族と離ればなれになる。 東ベルリンのアレクサンダー広場駅前では、抱き合いつかの間の再会に涙する、そんな家族の姿があった。

初めて「ベルリンの壁」を見た印象は、「どこか薄っぺらい"塀"」だった。 少し力を入れて蹴飛ばせば、あっけなくぱたんと倒れてしまいそうだった。 西ベルリンでその壁を見ると、カラフルなラクガキがまるで前衛ポップアートのオブジェのようにも見えたが、国境を東ベルリンへとくぐり、同じ壁を今度は裏から眺めると、ただのつるんとした灰色の壁でしかなかった。 おまけに壁の正面には鉄条網で「立ち入り禁止区域」となっていたし、要所要所に設置された監視塔からは、脱国者を狙う双眼鏡と銃口がのぞいていた。

ぼくは、どうしようもなくその「壁」を嫌悪した。 「こんなものいらない」と声に出してもみた。 再び西ベルリンへ戻り、チェックポイントチャーリーにある「壁の博物館」に訪れた後は、よけいにその想いが強くなった。 あまりにも嫌悪感が強くなったので、ぼくはその「怒り」のようなものを何らかの形に残さないと、気が済まなかった。


壁に、おしっこひっかけちゃおう!


ぼくは直ちに行動に移した。
クロイツベルグのバーで1リットル分のビールを飲む。 まだ朝だが、多くのお客がやはりビールを飲んでいた。 この辺りはトルコ人が多い。 またドラッグ患者も多い。 店を出るとこんどは「おしっこ」するのに最適な場所を探し、壁沿いに歩く。ひと気が少なくて立ち小便するのにふさわしい場所。20分くらい歩いて、ようやく発見。 寒さとビールで膀胱は限界状態にあった。 ラクガキが少なめのその壁に向かって、一気に蛇口を最大にして放水を開始した。

じょろっ じょろっ じょじょじょじょー・・・・

春とはいえ、まだ気温の低いベルリンの朝、放射線を描くおしっこから立ち上る湯気にサングラスも曇る思いだ。

じょじょじょじょじょじょじょ・・・・

念のためもう一度あたりを見回す。
横確認、後ろ確認OK! 誰もぼくに気づくものはいない。「このクソ壁めっ」と悪態をつきながらぼくは、壁に向かって放尿しながら、なにげに頭を上げてみると、


正面やや斜め上に、「監視塔」を発見 ( ̄□ ̄;)!!

じょっ・・・・


いや、発見したのはむしろ彼らのほうで、発見されたのがぼくの方だった。


じょじょじょじょじょじょじょじょ・・・・


スモークのかかった監視塔の窓ガラス。 しかし開いているほうの窓から国境警備兵が双眼鏡でこちらを見てる。 あの角度からだとぼくはどのくらい見えてるのだろう。 やばい、もうひとり来た。 明らかにぼくを視認している。

じょじょじょじょじょじょじょじょ・・・・

やがて、警備兵のひとりがどこかに電話をかけ始めるのが見えた。

じょろんっ


早く終わらしてその場を立ち去らないと、「連行」、「射殺」ってことも考えられる。 焦る気持ちとはウラハラに、しかしおしっこはなかなかとまらない。



あとで知ったのだけど、「ベルリンの壁」は東側に50cmほどずらして建てられたという。 つまり壁から手前50cmまでは、東ドイツの領土なわけです。 幸いぼくはおしっこの跳ね返りを避けるために、壁から50cm以上離れて立ってはいたものの、しかしぼくの「愚息子」は、しっかり領土侵犯してました。





東西国境をまたいでの、「平和のアーチ」

ベルリンの壁が崩れ東西冷戦が終わったのは、それから5年後のことだった。





じょじょじょじょじょじょじょじょ・・・








ランキング降下中、ううう・・・