ある天才の死

石井と出会った、広島のロック喫茶

ライブまであと2日
イシイという男について書く。
ぼくが生まれて初めて知った"天才"。 そして18歳でこの世を去った男。

彼との出会いは高校一年の時、しかし学校ではなく、よくたむろしていた「ロック喫茶」だった。 大音響が鳴り響き、タバコの煙で店の奥が霞んでみえないような小さな店。 こんなところを出入りしている高校生はあまりいない。 客はどいつもこいつも、世の中をなめきっているような連中ばかりだった。 大学生や水商売の女たち。業界の人、ヤクザ。 岩国基地へ駐屯しているアメリカ兵。 店の名前は「MAC」。 店員の態度は荒っぽいが、どこか優しい大人たちだった。 数少ない高校生の客として、ぼくとイシイはそこで出会った。

イシイは無口だが、日本人離れした容姿の持ち主だった。 身長は高く、手足も長い。 高校生なのに英語は今の平均的日本人駐在員より上手だったろう。 しかし何よりも上手だったのは、そのギターの腕前だった。 "QUEEN"も"Zeppelin"も、"Deep Purple"もひととおり弾けた。 作曲もした。 ぼくが口ずさむハミングをすぐに譜面に起こすことも出来た。 彼の長い指が弦にあたるとき、「こいつのことを"天才"っていうんだな」と思った。

イシイの部屋にはドラムセットが置いてあった。
「わしが弾くけえ、オマエ叩けや」
こうしてぼくはドラマーとなった。 世界一へたくそなドラマーの誕生だ。 一緒にタバコを吸いに来ていた、ノトという男。 彼はたまたまベースを持っていたので、ベーシストとなった。 ノトは石井よりも背が高い。 聞けば185cmだという。 二人に並んで歩くと、ぼくは小学生のようだった。 ほどなくバンドが結成され、たまにイシイの部屋で練習するようになった。 そのうち、やつが勝手に"デモテープ"を、YAMAHA主催の「HOT JAM」のオーディション審査局に送ってしまった。 イシイ本人が、全楽器を演奏しマルチチャンネルで作ったのだ。 「バカたれ!」とぼくとノトは口を揃えるが、イシイは涼しい顔でタバコをふかしながらいう。
「パンクならオマエラでもすぐ出来るけえ、がんばれや」

1980年代に入ったばかりの当時の広島は、ニューミュージックの全盛期だった。 「世良政則」、「円広志」、「浜田省吾」、彼らを生み出した土壌では、「パンクロック」は育ちにくい。 その中でも当時の"YAMAHA"は「パンクロック」を音楽として認めない、保守中の保守派だった。 ゆえに、「パンクロッカーズ」のままでは、オーディションは受けさせてももらえない。 イシイはリハーサル用の偽装曲を二つ用意した。
この偽装曲と、ギターの天才にして容姿端麗なイシイのカリスマ性も加味され、ほどなくして、"HOT JAM 80"の出演が決まった。 しかし演奏曲は、"Fuck You", "Don't sing a Love Song", "オマエは売女"であった。 全曲オリジナル。 広島でもっとも過激な歌詞をもつパンクロッカー、"SICK FUCK(性病)"は、"SF"というバンド名で、「広島郵便貯金ホール」に突如出現した。プロを目指す多くのバンドやミュージシャンに混じって。

演奏は惨憺たる結果だった。 そもそも演奏ではなかった。コンテストに参加しているつもりすらなかった。 「理由なき反抗」をしてみたかっただけ。 ぼくらは曲の合間に、ステージで爆竹を鳴らし、消しゴムを貼り付けたコンドームを観客席へ投げつけた。 主催者はあわててアンプの電源を落とし、幕をおろした。
ぼくたちは、控え室でスタッフ達にどなられた。
「オマエラそれでも高校生か!」
ノトはポケットから大きなカッターナイフを取り出す。イシイはいつものファイティングポーズ。 一発触発の雰囲気。 ぼくはあわてて、この二人の大男をそこから連れ出した。
「ケーサツ呼ばれるで、アホンダラ!」
しかしイシイはギターケースからタバコを取り出しながら笑っている。
「伝説」をひとつ、作れたことに無邪気に喜んでいるのだ。<続きます>




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