飛行中年

「飛ぶよ、なおちゃん」
と、とうとつに電話でそういわれ、日曜日の早朝だったこともあり、最初ぼくは何のことだかわからないまま、呆けた顔で受話器を握りしめていた。
畑さんだった。

彼はドイツ時代、お世話になってたコンピュータ関連の会社の日本人社長だ。 しかも、なかなか江戸っ子なおっさんで、口は悪いが涙もろい。 おまけに顔がものすごく大きく、彼が怒ると"なまはげ"のような迫力があった。
そんな畑さんの運転するメルセデスに便乗し、アウトバーンとか走ると、もう恐ろしいのなんの。 あいかわらずファーストレーンを200km/h で気持ちよさそうに走っている畑さん。 しかも車内には「矢切の渡し」が大音響で・・・。 とそのとき、後ろからポルシェ・ターボにパッシングされたようすで、カーステレオと一緒に演歌を歌っていた畑さんの顔に、さっと不機嫌な影がよぎる。 しかたなくいったんは車線を譲り、ポルシェを抜かさせるのだけど、横切る瞬間ポルシェのドライバーと目があったのがいけなかった。
「やっぱ、気にくわねぇ」とこのおっさん。 後を追いかけようと、アクセルをぐうっと踏みこむ。
おいっ
で、夢中で追いかけてるうちに時速240km/hを超え始めた。 新幹線なみだ。 静粛性がウリのメルセデス・ベンツもこの速度だと、さすがにエンジン音がうるさい。 タコメータートップギアでもレッドゾーンにはいり、やがてスピードメーターは260km/hにさしかかっている。 つい、「お経」とか唱えてるぼくの横でこのおっさんは、
なんだよ、もう出ねえのかよっ、このぼろベンツ!」 (* 十分ではないかと・・・)
などと"なまはげ"の顔で悔しがっている。 「なまはげ顔」はコワイしおまけにデカイが、死ぬよりはましだ。 小さくなるポルシェの愛らしいお尻に向かって、ぼくは手をあわせた。

「今度、セスナに乗せてやるよ」
訊けば畑さんは、以前グアムに住んでいたころ、セスナの操縦ライセンスを取得したのだそうだ。 先日ドイツ人のフライトメイトと共同で双発型のセスナを購入し、デュッセルドルフ空港に停めているらしい。 「へえ、面白そうですね。じゃ、機会があればぜひ!」といったっきり、ぼくはすっかりそのことを忘れてしまっていた。

死にたくはなかったがやはり好奇心に負けたぼくは、けっきょく畑さんの待つ空港まで出かけ、そこで飛行前のブリーフィングに立ち会った。

意外に小振りなセスナを目の前に、畑さんは整備士と一緒に、「ラダーオーケー!」、「燃料系オーケー!」などと、ヘンなドイツ語で指さし確認をしている。 天気は快晴。 抜けるような紺碧の秋空に、蒸気する超ハイオクタン燃料が、陽炎の景色をいっそう揺らめかせていた。 「やっぱよそうかなあ?」 とつい、ぼくの心も揺らめいた。

思ったよりさらに窮屈な機内、畑さんの大きな顔と並んで、ぼくの顔はひきつっていたかもしれない。 けれどもタクシングする畑さんの生命力みなぎる鼻梁を眺めているうちに、「ま、いっか」と思い始めていた。 畑さんからは、「殺しても死ななそうなオーラ」がめらめらと発散していた・・・ そう、フェニックスように。 「火の鳥だ!」 と思い、瞬間、「シャレになんねえ!」、とあわてて打ち消した。
時速170kmでその小さな機体は、ぼくたちを乗せてふわっと舞い上がる。 機内はびりびりとうるさく、メルセデスとはエライ違いだけど、前も横も後ろもぜーんぶ空なのにぼくは感動していた。 「飛んだ、飛んだ!」と大はしゃぎするぼくに、「飛ばしてんだから飛んでんだよっ」と畑さんはそっけない。
「このまま高度6000フィート(2000m)までのぼるぞ」
窓から下を眺めると、「士」の字型の影が、ビルを道路を丘を貯水池をするすると滑っているのが見えた。
「今日は天気イイから目視飛行しような」
狭い操縦室の中で、きょうの畑さんはいちだんと顔がデカイ。 地図を渡されるのだけど、ちっとも見方がわからないのでぼくはあきらめて窓の世界を眺めた。 航空地図なんて初めてだし、だいいちとんでもない方向音痴だ。 それでも目印になる小さな飛行場を探すのだけど、うまく探せないぼくに、「ちゃんと、ナビゲーターやってもらわなきゃ困るよ、なおちゃん」と言う畑さん。 冗談のつもりだろうが、それにしてもたちが悪い。
想い出したようにぼくは自分の足下にふと目を落とす。 この下はなんにもないただの宙だ。 いまさらのように「ぞぉ〜」っと鳥肌が立った。そういえば「パラシュート」とか、あるんだろうか・・・!?

しばらく飛んでいるうちに、目的地のヴィルヘルムズハーフェン(北西ドイツ)に近づいてきた。 やや高度を下げ始めたころ、畑さんは突然、「あれ!?」 とすっとんきょうな声を上げる。 なんだなんだとぼくは一瞬凍りつく。
「オランダ領に入っちゃったよ!」
とこのおっさんは、信じられないことを言うのだ。
つーか、領空侵犯かよっ ( ̄□ ̄;)!!

「前もやっちゃったんだよなー、はっはっは・・」 (をい)
「さっきギャーギャー言ってたのは、警告だったのかあ・・・」
・・・・ (゜ё゜) 


この場合、オランダ空軍にスクランブルされミラージュ戦闘機とかに撃墜されちゃったり、迎撃ミサイルに打ち落とされたりしないのでしょうか? 日本の自衛隊は助けてくれるのかな? それとも、こちらも応戦ってことで空中戦とかするのかな? など、考えているうちに、
「まあ大丈夫だろう、左ウイングがちょっとかすったくらいだから」、 と畑さん。

ベルリンではポコチンで領土侵犯してしまったぼくも、さすがにちびってしまいそうだった。 ちっとも反省の様子なく畑さんは、「また会う日まで」を呑気に歌ってる。

ていうか、「ダレとも会えない」ことになってしまいそうでしたけど。

命からがら小さな田舎空港に着陸し、大地を確かめ命あることにヨロコビを覚えるぼく。 畑さんに誘われ「昼食」をとりに、小さなカフェへとよろよろ歩く。

「帰りは計器飛行だからな」

まだ、帰りがあったのか・・・。

北ドイツの天候は変わりやすい。 いつの間にか暗雲が空を覆い、ぽつぽつと雨が降り始めている。 別の空では青空がのぞき、キラキラと陽光が地上に降り注いでいた。
カフェの売店で売られているポストカード。 それを横目で追いながら、ぼくは本気で「遺言」をそれにしたため、投函することを考えていた。






お元気ですかみなさん、ぽちっと般若心経