自己安定と自分の視座

アタマくんが入稿した記事です

香港に外国人として住んでいながら、香港や香港人にいろんな不満を漏らしてみたり、つい、ツッコミばかりしている自分。 「日本だったらこんなことないのに」とか「日本人だったらぜったいしないだろうなあ」、などといってみるが、こんなの、住んでいる国やその国のヒトタチにとっては「大きなお世話」だろう。 でも、異郷で暮らす世界中の外国人達は、こんなふうにして、知らず知らず「自己の精神安定」を得ているのかも知れない。

ヒトは、周りのヒトタチとの「差異」を発見することで、「自己安定」させるところがある。 個人が持つさまざまな属性 〜 「出身地」、「出身校」、「職業」、「血液型」、「誕生日」 〜 これらを他人と確認し合うことで、ぼくたちはまわりとの「違い」や「類似性」を知り、「距離」をはかることができる。 つまり、「自分のポジショニングを知る」わけだ。
在外邦人にとっては、さらに「日本人」という属性がこれに加わる。

「日本じゃ、こんなことありえないね」
香港またはその他の外国でこのセリフをはくとき、ぼくは気持ちの根底に、「自分は日本人である」という「優越感」や「劣等感」を持ち合わせているはずだ。 そして、「そこ」へ逃げたり、「そこ」からものごとの"甲乙"や"正偽"をつけようとする。

だからぼくは、外国においては「日本人としての視座」を意識しながら生活していたように思う。 「視座」が揺らいだり、誤解したままだと、とらえる対象を読み間違えてしまうからだ。 海外へ飛び出してから足かけ18年もの間、ぼくは「日本」や「日本人」ってなんだろう? という自問自答から逃れることはなかった。 これまで何百人もの外国人から「日本」を訊かれ、「日本人」を訊かれた機会はまた、同様に「日本」や「日本人」の印象について、外国人に訊いて回る動機となった。 ぼくが「歴史」や「比較文化論」に興味を持ったのは、その意味で自然の流れだった。

「外に出ること」はまた、「内へと帰ること」なのだろう

海外へ長く住みそこを「都」とするためには、海外を知ること以上に、日本をもっと知る必要があるのかもしれない。 「買いかぶり」や「奢り」、反対に「無用なおもねり」や「自虐感」から自分を解放しておくためには、自分の属性である「日本」をもっと知るべきだと思うから。

「自分の視座」を確保しておくためにも、プライドを保持し、外国人を尊敬していくためにも、「"それ"を知らないでいい」という自由はない。

「人類はみな兄弟」 ではなく 「違うヒトタチ」だ。
それぞれに「自分の視座」があり、ゆえに「他人の視座」を尊重する。 それが結果的に尊敬しあえる関係となる。

と、ぼくは思う。




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お知らせ【その一】
「香港最強ブロガー委員会 第二回会合」、参加者のほうは明日でいったん締め切ります。 これまで「参加表明」していただいた方達、どうもありがとうございます。「参加したいけどまだ連絡してなかった」ってな方、メールのほう、お待ちしてますね。


お知らせ【その二】
6月5日のライブ時の写真、たくさんメールで届きました。 あらためてお礼申し上げます。 現在、一生懸命選別したり必要な画像調整などの作業をしています。 演奏の様子を何曲か動画でもご覧いただけるよう、こちらも編集作業中です。 更新が終わったら「イラ写」でもお知らせしますので、もう少し待っててください。(つーか、待ってるのかな?そもそも・・)