香港のきっかけ

スーツケースとなおきん

いまこうして窓からのぞむ香港島。 林立する高層ビルの夜景を眺めながら、ぼくはふと、定められた運命に従おうともあらがおうともせず、ただふらふらとさまよい「ここ」へたどり着いた、ある30後半の日本人男のことを想い出す。
ぼくのことだ。
2000年の春は本当にいろんなことがいっぺんにやってきて、ぼくの顔を左右にはたき、足を払い、尻もちをつく場所には穴まで掘ってあった。
ドイツから出張で香港へ来たのはそれが初めてだったが、「香港 - 台北 - 東京 - フランクフルト - デュッセルドルフ」、長く遠い出張が終わりやっと戻った自宅には、待っているはずの妻(ドイツ人)がいなかった。いや、妻は「そこ」にいた。 7時間の時差を越え、シャワーを浴びる気力もないまま倒れ込むベッド。 その縁に座り、彼女はぼくを待っていた。 しかし「おかえり」の代わりに、彼女が用意していたのは「涙」だった。
彼女は泣いていた・・・
しずかに押し殺していた嗚咽は、やがて大きくうねり、ぼくの眠気を吹き飛ばした。 ぼくは押し黙ったまま、彼女が泣きやむのを待つしかなかった。
「ごめん、やっぱり、こんど、話すわね・・・」
結局彼女はそういうだけで、立ち上がるとフロアスタンドの明かりを消し、静かに寝室を出て行った。 ドアの閉まる音。 少し経ってから、遠くガレージから車が出るエンジン音が耳に届き、やがて消えた。

それから3日間、妻は家には戻らなかった。
3日後、見たことの無い服を着て彼女は再び現れた。 そして泣きながらぼくに「別れ」告げた。 結婚してから14年、知り合ってから16年の月日が流れていたが、「別れ」はそんなふうにいとも簡単にやってきた。 取り残されたぼくだったが、結局、妻からの「別れ」を受け入れることにした。 2週間後のはずだったトルコ旅行は、電話でキャンセルをいれた。

十数年ぶりの「ひとり暮らし」がこうして始まった。
当時務めていた会社、そこの社長はぼくが尊敬してやまない人だったが、ぼくがアジア出張に出かけている間、新たに東京から派遣されてきた男とそのポジションを交代し、日本へと帰任していった。 新社長は、これまでぼくが作ってきたスキームを、ことごとく壊していった。 発芽中のビジネスをつみ取り、ぼくが大事に育てていた業者とのパートナーシップを反故にしていった。 彼は彼のやり方があったのだろうけど、それはあまりに近視眼的すぎた。 そして悪い意味で「東京すぎた」。 立場を失ったぼくは、「ここから」も去ることにした。 (結局この社長はわずか数ヶ月で親会社から解任されたが、時すでに遅く、ぼくが辞表を叩きつけた数週間あとのことだった。)

ぼくの住んでいたデュッセルドルフの街は、景色こそ変わらなかったけれど、確実に以前のそれではなかった。 延べ12年も住み続けた街にはちがいない、しかしどこかその風景は急によそよそしく感じられ、ぼくを拒んでいるようにも思えた。 そう、気がつけばぼくは「招かざる客」となってしまっていた。

そんな折り、ぼくは4月の香港出張中に知り合った「相棒」の言葉を想い出していた。 「相棒」は香港9年目の駐在員だったが、ちょうど独立を決意し、「ある香港グループ企業の役員」として迎えられたばかりだった。 そんな彼は、香港島を東に走る車の中で、
「"ここ(香港)"で、一緒に暴れてみませんか?」
と、ぼくに声をかけてくれていた。 初めて会って、わずか24時間後のことだ。 いっぽう「時」同じくして、地球の裏側のドイツの自宅では、奇しくも妻が 「ぼくとの別れ」について、ひとり思い悩んでいたにちがいなかった。

「運命の扉」とは、そんなふうに「ひらいたり」、「とじたり」する

ぼくはドイツを出ることを決心し、「相棒」にメールを出した。
そのことが、定められた運命に「従ったもの」なのか、「あらがったもの」なのか、そのときのぼくには 考える「余裕」も「選択」もなかった。

こうしてぼくは、「メールひとつ」で初めて香港に出張し、「メールひとつ」でドイツを去ることになった。

そしてあれから4年半経ったいま、


今度は、香港を出ていこうとしている。



着たときとは違う 「スーツケース」 をもって
「入り口」とは違う、「出口」へと向かう・・・




次回は、「香港イラスト写真日誌」の、「最終回」です。