また来る日まで・・・

さよなら香港、また来る日まで!

あっというまの香港滞在でした。
ライブに向けて、金曜日は3時間ぶっ続け、土曜日は4時間ぶっ続けで猛特訓しました。
香港ブロガー会、ほんの数十分だけでしたが参加できました。
冷や汗かきながらも、ライブは無事、やりとげました。
仲間や古い友人、最近知り合った新しい友人に再会し、初めて会うたくさんの人たちに出会えて、とても感激しました。
ちっぽけなぼくの存在、でもちゃんとみんなと繋がっているんだなあ、とあらためて実感することができました。
短い期間でしたが、とても充実した4日間でした。

また来ます。
必ず、戻ってきます。
それまでさようなら、香港、
そしてそこへ住むぼくにとって大事な大事なひとたち・・・
どうかお元気で・・・!

続きは、『東京イラスト写真日誌』 で!

■ 12月11日の「ライブ・イン・ランカイフォン」についてのレポートは、東京イラ写のほうにアップする予定です。 もうちょっと待っててくださいね。

余分なものと偶然性

現代風の手書き風景

だれもが同じパソコン文字を使って違うコトバを伝えあう時代。
メールとWEBが当たり前になった今の時代で、「アナタらしい筆跡」を残すのはカンタンではない。
まだワープロが生活に普及していない時代にもらった愛しい人の文字は、いまはもうなくなってしまったけど、そんな昔の彼女にまとう面影のそばには「筆跡」というかけがえのない個性があり息づかいがあった。

そもそも人がペンを持って何かを紙に書き写すとき、「情報」や「文脈」とは違う別の何かがちゃんとそこにあって、伝える誰かにあるいは少し先の自分に「あなたらしさ」を残すことが出来ていたと思う。

ブログやHP、メールという媒体には、どうしても「情報」という意味合いが強いため、発信者が本来持っているはずの「アナタらしさ」とか「偶然性」といった「余分なもの」が見えにくい。 もちろん、「余分なものは不必要である」という性格のものならそれでもいいのだけど、個人ブログといった媒体ならば、どれも同じに表示される文字のほかに、なにか「自分らしさ」が表現できるといいなあと思う。
ぼくがこの「イラ写」に必ず「手書きイラスト」を少なくてもひとつ、載せることを心に決めた背景には、以上のように思いがあった。

それがある日、いまでは香港ATVの人気番組(?)『ジャパニーズタイム』のパーソナリティ、りえさんと番組プロデューサーの目にとまることになり、ぼくのつたないイラストが「TV出演する」ということになった。 すでに10回の放送を終え、今週末で11回目を迎えるというこの番組。 すでに来年以降も放送続行が決定し、制作会社は蜂の巣をつついたように大騒ぎ。 連日大忙しで制作準備に取りかかっているという。

ぼくのイラストは、この番組の【異議あり!生活法律相談所】というコーナーで登場している。 しかもオリジナルのイラストに制作スタッフが特殊効果を加え、単なる「電気紙芝居」にとどまらずちゃんとアニメーションになっているようだ。 (日本では放送されていないので、ぼくは実際には見ていない)

こんなこと言っちゃミもフタもないけど、ぼくのイラストなんてそもそも、酒場で酔った勢いでコースターの裏に殴り書きする「ラクガキ」にすぎなかったのだ。 それが「イラ写」を通じて周知されるようになり、こうしてお茶の間にまで届くようになってしまった。 正直なところ、「うれしい」というよりは「申し訳ない」といった感じだ。
だって、本当に他愛のない「ラクガキ」だったのだ。

数ヶ月前、りえさんからこの仕事(?)の依頼を受けたときは特に何も考えずにOKを出したのだけど、これがけっこうきつい作業だった。 一日平均15時間労働で拘束される仕事に加え、「イラ写」の更新や「日刊ブロガーズ」の管理。 おまけにここしばらくは「ライブの準備(ほとんど何もしていないけど)」なんてのもあった。 会社経営に携わっているということもあって、勤務時間以外にもやれ事業計画づくりだの接待だので時間を取られることも多い。
たぶん似たような作業をしている人には理解できると思うのだけど、「イラストを描く」というのは、ある程度気持ちに余裕がないとクリエイティブなものは描けない。 いくら眠い目をこすりながら机の前に座ろうと、湯船につかりリラックスしようと、気分転換のために近所のドンキホーテに立ち寄ろうとも、「でないときはでない」のだ。
まるで重度の便秘患者のように。

当然ながら〆切前までに作品を出稿することは、戦車を海に浮かべ、潜水艦を空にとばすくらいに難しい相談だった。
そのことで制作スタッフやスポンサーに迷惑をかけたり、成果物のクオリティが悪いためにやがては番組の質を落としてしまわないかと、それがとても気がかりだった。 来年も引き続き「依頼」を受けていたのだけど、このままだと双方に支障が出てきそうなのがコワかった。


「断るしかない・・・」

と思っていた。


そんな折、先日制作会社のスタジオにおじゃまする機会があった。場所は香港島のフォートレスヒル。 東京でいうところの阿佐ヶ谷といったところで、まわりにはショッピングセンターやオフィスビルのほかに、多くの古い高層住宅街が立ち並んでいる一帯の中にあった。

もう夜中の0時を回っているというのに、スタジオ内はごくごくフツーの仕事風景。 「いつも夜型なんですか?」の質問に、りえさんは「午前中にも午後にも仕事がありますよ」とこともなげにいう。 じゃあいったい、いつ寝てるというのか!?

▲ 近寄りがたいくらい真剣に作業中のりえさん ("天使の輪"とかつけてんのに・・・)


▲ 今やすっかり有名人「美人なのに3枚目」ってとこがいいです

「朝10に寝て、夕方の4時まで爆睡してしまいあわてたこともあります」とりえさん。 電話もつながらず、自宅のドアベルにも反応しないのでプロデューサーのラソンさんは「死んでいるのかもしれない・・」とあわてさせてしまったとのこと。
「じゃあ、警察か救急車を呼んだんですか?」と試しに訊いてみると
「お腹が空いてたので、ひとりでごはんを食べに行きました」との答え。

ラソンさん、おもしろいけどクール過ぎです。
スタジオではちょうど、ぼくの描いたイラストを加工しているところだった。 部屋いっぱいに並ぶ機材、積み重なる機材。 所狭しとワケのわからないものがいっぱい。 机の上の虫眼鏡はなににつかうのだろう? それはまるでコクピットのようで、席に座る制作スタッフたちはさしずめパイロットというところか?


▲ ある意味パイロットなラソンさん


画面に映し出される心電図のような音声信号、そのギザギザを診るだけで、どれがボイスかノイズかを瞬時に判断できるのだというラソンさん。 鮮やかな手さばきで、ぼくのイラストに次々とエフェクターを加えていく。巧みだ。匠の技だ。



▲ 番組制作のための編集作業はこんな感じ

「不動産の前で部屋を物色する女性」を描いたイラスト。 かれは彼女のお尻を切り取り、左右対象コピーを作り、これらをつかって「お尻をふっている」ようすをアニメーション化しようと、いろいろといじっている。 考えようによってはずいぶんエッチな作業だ。 「もう少しスカートを短く描いておけばよかったかな」とヨコからディスプレイをのぞきながら思う。 (いろいろ試行錯誤の上、結局あきらめちゃったみたい) 同じイラストでは「道ばたを歩いている犬」がなんと空から降ってきたりするシーンも!?

きめの細かい作業がくり返され、少しずつ少しずつ一本のアニメーションが制作される。 「ラクガキ」程度のこんなぼくのイラストに、これほどまでに精魂が込められているとは・・・!?
ユーモラスなイラストと真剣に眉間に思い切り皺を寄せてディスプレイを見つめるラソンさん、余りにも対照的なそのふたつをかわりばんこに眺めながら、いつしかぼくの気持ちは変わっていった。
ぼくが描くイラストの遙かに多くの時間をかけて、このわずか5分のアニメーションは制作されている。 声の吹き替えを担当するマークさんとさっぴばさんも加わって、このコンテンツに命が吹き込まれていく。
それらを目の当たりにしながら、ぼくはいつしか「断るコトバ」を失ない、それとは別に不思議なエネルギーがわいてくるのを感じていた。


どこまで出来るかわかんないけど、求められる限りやるしかないんじゃないか?
と思えるようになってきた。


時代を反映して、次第に失われつつある「手書き文字」のような余分や偶然性を、ぼくは「イラスト」で残したいとあらためて思う。 イラストが描けるのは、とても幸せなことだとあらためて思う。

そしてそれは音楽についてもそうだろう。
いい音楽はコンピュータを駆使すればいくらでも作れる。 だのになぜ、あえて人は楽器をつかって、肉声を使ってそれらを演奏するのだろう?

つきつめれば必要のない、「余分なもの」や「偶然性」。 こんな時代だからこそ、それらにぼくは身をゆだねたいと思う。


生産性や効率性ばかりをもとめる、「今の時代」なんてくそったれだ!


明日はぼくの所属するロックバンドのライブ。 ぼくはこれに出演するために飛行機に乗ってやって来た。 「ギャラも出ないのにバカだよなあ」という友人もいる。

ぼくに言わせれば、「そういうオマエこそがバカ」だ。
人間はコンピュータの進化ほどには進化していないし、する必要もないということを実感してみたいと思う。

■ りえさんとのツーショット


  • テレビに出演するようになってから、道ばたで「サインください」とか言われませんか? とりえさんにきくと、「ありえないですね」という回答。 いま売り出し中の彼女、サインもらうなら今がねらいドキかも!? もらってないけど・・・

午前10時にはTVの前でおはようさま!ってことで。 ぼくも実際に放映されるのを観るのは明日が初めて。 楽しみです!

香港モード

昨夜、香港空港に到着。
着いたとたん、細胞のひとつひとつを占拠していた東京が瞬時にして追い出され、代わりに普段はひっそり息を潜めていた香港がじわっとにじみ広がる感触。 それから軽い混乱。 それはまるで、何者かにさっと自分が取り替えられるような感覚すらある。
「あとはオレがやるからオマエはしばらく寝ていろ」
といった感じ。


短い滞在だけど、それなりに中身の濃い滞在になりそうです。
さて、到着してすぐに「ある場所」におもむき、打ち合わせついでに「取材」をさせてもらいました。 今夜さっそくアップしたいです。


おたのしみに!

なおきん来港決定

naokin_hk2005-12-06

12月11日のインソムニアでのライブのため、12月8日〜12日まで香港に滞在予定です。 これにともない、滞在中はこちらに記事をアップします。お楽しみにね!



さて、なに書こうかなあ・・・

宛先不明の宅配便

「ただいま」なのか「いってきます」な

短い沈黙を経て、ぼくは通ってきた道のことを振り返る。長くはかなかったジーンズのポケットに見つける古いライターのように、普段は意識することのない記憶。机の引き出しの中に眠る古いレシートのように、それらは主張することも利用されることもなく、辛抱強くそこでじっとしている。

2005年7月15日から9月15日までの東京生活の方が記憶に新しいはずなのに、2ヶ月前の香港の記憶の方がここでは新しいことに少し驚く。風景も街の匂いもそこに住む古い友人たちも、ちっとも変わっていないことに安堵を覚え、それから軽い記憶障害に陥る。「広島」、「名古屋」、「東京」、「デュッセルドルフ」、「セブ島」、「ロンドン」、「パリ」、「香港」、そして再び「東京」・・・間違えて届けられる宅配便のように、ぼくは各地を転送して回る。
「戻ってこい」
と、友人達はそう言う。香港でも、日本でも、そしてドイツでも。そんなときぼくは、探偵小説などの巻頭部分に載せられた「登場人物の紹介」を思いうかべる。はたしてぼくは、そう言ってくれる人達の世界にとってどういう「登場人物」として紹介されているのだろう?と。

人はいつしか「あるべき世界」を思うままに築き上げる。その世界の中心にマイホームを建て、そこに住むべきヒトタチを選別し、そこで演ずるべき役割が決められていく。ぼくにもそんな世界があるが、別のダレかにももちろんそれはある。その人の経験や体験に裏付けられた価値観とセオリーがこの世界の成り立ちだ。 ある日、ぼくは「とある世界」での裏切り者となる。理由はそれほど多くはない。その世界において演ずるべく役割を、それ以上果たさなくなるだけだ。 やがて送り状が貼り替えられ、ぼくは再び発送される。同時に「登場人物リスト」から名前を消される。

「東京イラ写」になってからアクセス数は半分に減ったとはいえ、ありがたいことに、それでも「イラ写」には連日平均1200ページビュー、毎日約600人のアクセスがある。このうち毎日230人もの方が「ブログランキング」ボタンをクリックされ、毎日20人〜30人の方からコメント、あるいはメールをいただく。他のブロガーさん同様、ぼくは常にその存在を他に知られる立場になった。音信不通になった古い友人や家族、かつての仕事仲間にとっては「生存確認」の役割も果たしている。
「イラ写」で発信されるぼくのメッセージには「送付状」というものが貼られていない。だから、メッセージはどこにでも届くし、どこにも届かない。結果として「読み手」に主導権をゆだねられるのがブログの特徴だ。それを前に、「書き手」であるぼくはどこまでも無力な存在だ。
そんなとき、ある人にとっては「あるべき世界に住むなおきん」と、「イラ写のなおきん」に深いギャップを感じ、とまどいを覚えることもあるのだろう。更新された記事を眺め、コメント欄で交わされる対話を眺めながら、快く思わない古くからの友人もいる。高層ビルの麓に作られる小さなつむじ風にも似た、突如わき起こる疑問の渦、そこに期待された答えをうまく紡ぐことができないまま、ぼくは塵や木の葉と一緒にくるくると所在ない。こうして翻弄されるままにぼくは「悪役」として、「あるべき世界」の登場人物リストに再登録されることもあれば、リストそのものから削除されることもあるのだろう。あるいは洗浄され再教育を受け、もとにあったリストに戻されることだってあるかもしれない。

毎日を疾走しながらもぼくは、今いる場所や目的地が一瞬みえなくなることがある。それは軽い記憶障害のようでもあり、苦痛から逃れようと反応する自己防衛本能のようでもある。


明日からは再び東京、
そこはぼくにとって「ただいま」なのか、はたまた「いってきます」なのか、よくわからない。

方向音痴にもほどがある
と、つくづくそう思う。




「香港イラスト写真日誌」は、香港滞在中のみ更新されます。 定期的な更新記事につきましては、「東京イラスト写真日誌」までどうぞ!

とらうま

孤独な小学生のひとりごはん

ぼくがまだ6つか7つのころ、ひとりで夕ご飯を食べていた。母親はいない、父親は夜遅くでないと帰ってこない。妹はいたが、別居中の母親のもとで暮らしていた。
そんなわけで、陽が暮れかかる公園に、ぼくの名前を呼びに来る母親も兄弟もいない。友達がひとり、そしてまたひとり母親に連れられ家路についた後、ひとり残ったぼくは、呼ばれてもいないのに「はーい」と返事をしてから腰を上げてみせた。そして長い影を踏みながら家へと向かい、合い鍵を使ってお勝手口のドアを開ける。
入ってすぐに目にはいるのは、椅子の背にひっかかる母親が残していったエプロン。それを不器用にカラダに巻き付けてから食事の支度をするのがぼくの習慣だった。油を塗ったフライパンを熱してからタマゴを焼き、冷蔵庫から梅干しやハムを取り出して一つずつテーブルへと並べる。それらを、ジャーの中にある少し黄色くなったご飯といっしょに食べた。少しでも豪華にと、おかずはすべて別々の皿にのせた。梅干し一個も、おかかも、それぞれが皿に盛りつけてある。運がよければ父親がスーパーで買ってきた「コロッケ」や「鯖の缶詰」を冷蔵庫に見つけることがあった。それらもやはり一枚一枚皿にのせては、冷たいまま食べた。夕日に染まる家並みを窓の外に眺めながら、黙々とそれらを食べた。
そんなとき、近所からカレーの匂いが漂ってくると、どうしようもなく切なくなった。ぼくの今のカレー好きは、このとき育まれたんじゃないかと、今にして思う。「カレーライス」は幸せな家族の象徴として、深く心に刻まれているのかもしれない。

食事が終わると、すぐに立ち上がってあわてて汚れた食器を洗う。エプロンをはずして椅子にかけると、居間へ歩いていってテレビをつけ、その前で横になる。チャンネル争いとは無縁だったが、見たい番組はそれほど多くはなかった。やがて眠くなると二階の自分の部屋に戻り、しいたままの布団に潜り込んで眠った。眠る前、少しだけ本を読んだかもしれない、あるいは読まなかったかもしれない。少なくとも「ダレか」が幼いぼくのために本を読んでくれたことは、記憶にない。たまに、居間の絨毯の上でそのまま眠りこけていることもあった。父親は夜遅く帰ってくると、ぐったり絨毯の上で眠るぼくを見つけ、「しょうがねえなあ」とぼくを両手で抱え、部屋の布団まで運んでいった。「狸寝入り」のぼくは、その瞬間がとてもスキでくくくっと笑いをこらえるのに大変だった。

ぼくが6歳の時、父親はまだ27歳だった。若くして、ローンを組んで持ち家を建てた。そこに親子4人が仲良く暮らせる城を築こうとしたのだろう。他のダレよりも早く、「一国一城の主」になりたかったのかもしれない。
けれども家が建ち終わったとき、母親と妹はもうそこにはいなかった。そして、若い父親と小学生になったばかりの息子だけが6つの部屋を専有した。「仏像作って魂入れず」、そんな城の主(あるじ)は実は「孤独な小学生」だった。父親は朝早く出かけ夜遅くに帰ってきた、日曜ですら一日の半分は家にいなかったのだ。
毎朝、父親が始動する車のエンジン音、それがぼくの目覚まし時計だった。布団をはねのけるとぼくは玄関まで走っていき、ガレージを出ていく父親が運転する車に手を振った。

父親の整髪料の匂いがうすく残る洗面所、そこで水で顔を洗う。それから朝食を取るために台所へ、テーブルにはごくたまに父親の歯形の付いたトーストが残っていたりした。ぼくは自分のためのトーストを焼き、やかんでお湯を沸かし、「森永ココア」を溶かしてて飲んだ。牛乳で飲んだ方がおいしいことを、ぼくはこのときはまだ知らなかった。自分のトーストを食べてしまうついでに、父親の残した歯形トーストもかじってみた。こうして父親の足跡を踏み重ねるように、登校までの時間を過ごした。

風呂にも入らず毎日同じ服を着て登校してくるぼくを、まわりの生徒は「ただの貧乏な子供」というふうにみていたかもしれない。そんなぼくを担任の先生はとても心配してくれたようだ。この心優しい女先生は、他の生徒には内緒で替えの制服を自宅で洗い、校舎の裏でそっとぼくに手渡してくれたりもした。
ある日、当時好意を寄せていた女の子に、「あなた、臭いわよ」って言われた。

小学生の分際でもそういうのはやはり傷つく。その時をきっかけに、ぼくは定期的に風呂にはいることを決心した。父親にねだって風呂の沸かし方を教えてもらい、苦労してそれを実行した。1970年代の日本はまだ、「瞬間湯沸かし器」など夢の夢だった。種火を起こしガスで引火させ、風呂桶にためた水を一定時間わかす。タイミングや水の量次第で、熱湯になったりほとんど水のままであったりした。
ある日、「自分で風呂を沸かしている」ことを作文の時間に書いたところ、学校で大騒ぎになった。父親が呼び出され、「火事を起こしたらどうするんですか!」とたっぷり説教されたという。無理もない、町内の火事の原因のトップは「風呂炊き時の不注意」だった時代だ。
以来、ぼくは歩いて30分もかかる銭湯へと通うことになった。すると今度は湯冷めが原因でインフルエンザにかかったりした。「臭い」か「火事」か「インフルエンザ」だ。こんなふうに、入浴をめぐって孤軍奮闘する小学生に、世間の風は心地よくなかった。


そのころのぼくはかなり無口だったようだ。無理もない。学校であったことを話す相手もいなければ、テレビを見て一緒に笑う相手もいない。宿題をしなくても怒られはしなかったけど、不思議なことに宿題はきちんとやっていた。「生活ノート」にも日記を書いていた。
「すべてのコミュニケーションは、自分の頭だけで完結する」などと、小学校低学年の分際でそんなことを感じていたぼくは、相当いけ好かないガキだったと思う。「話さなくても生きていける」環境なのだから、わざわざ話す必要を感じなかったのだ。「いつもひとりでエライわねえ」などと、会う度にぼくに声をかける近所のおばさんや店員たちが、わずらわしくて仕方なかった。


ある日、学校から家に帰ってみると、玄関に紙袋がおいてあることがあった。袋の中身は、漫画や服、お菓子やおもちゃ・・・。さっそく父親が休みの日に袋の中身を見せると、「だまってもらっておきなさい」と顔も向けずにいわれた。
それ以降も、「玄関の紙袋」は何度もあった。あとでぼくは、それは別居中の母親が誰かに使いをよこしておいていったのだと、知った。けれども、ちっともうれしくはなかった。ぼくは腹さえ立ってきた。母親はどうして、「漫画一冊」の代わりに、「シュークリーム一個」の代わりに、「怪獣の人形ひとつ」の代わりに、「手紙の一枚」、いや「書き殴りのひとつ」も一緒に袋に入れてくれなかったのか? 母親なんて必要ないと強がるぼくだったが、やはり気持ちのどこかで「母親の存在」を実感し、ぬくもりを確認しておきたかったのだろう。
たとえ授業参観日の教室の後ろから、ぼくだけを見ている人がいなくても。


そんなことから、いまでもひとりでごはんを食べていると、かつて母親のエプロンをカラダに巻いた小さな自分が、部屋の隅にぼうっと現れることがある。口を一文字に結び、汚れてぼさぼさの頭をゆっくり左右に振りながらごはんを食べている小さな男の子。そしてぼくに気づくと、箸を止め、じっとこちらをにらみ据えてくるのだ。

寂しさと憂いをたたえたその瞳に、ぼくは思わずぞおっとする。



だから、「ひとりごはん」は苦手なんです。

ひさしぶりだね

左から、カラダくん、ココロくん、かぶ

「イラッ写いませ!」

2ヶ月ぶりの香港ですが、あいかわらず、暑いですね。
でも、なにこの青空!? いつもはガスがかかっているのに何という高い空・・
暑いことは暑いけど、確実に秋の空になってるんですね。


てなわけで、「香港イラ写 ”番外編”」、いよいよ始まります。
といっても、さすがに原稿を書く時間がないので、最初の記事は以前カキダメしておいたヤツです。いわゆる「ブログのVTR」ってやつですね。