さよなら、香港

さようなら、香港

ちょっと疲れてて
しょげてたぼくを


ときには、
励ましてくれたり
叱ってくれたり
感動させてくれたり
失望させてくれたり
勇気をくれたり
笑わせてくれたり

ときには、
泣かせてくれたり

たくさんの
元気をくれたり・・・


お世話になりました、香港
ありがとう

これから空港へ向かいます。
しばらくさようならだね、香港


また、あう日まで


さようなら


香港のたくさんの顔、

たくさんのひとたち、

ありがとう


さ よ う な ら



この続きは、「東京イラスト写真日誌」でね。

特別編集 「イラ写50選」

イラ写特別編 厳選50記事

こんにちは、なおきんです。ちょっとご無沙汰してますがお元気ですか?
「ずっとこのまま最終回ページがトップにあるのもちょっと・・・」と思い、ここに 「香港イラ写日誌 特別編」、『イラ写50選』と題して、イラ写の中でも特にヒット数の高かった記事に加え、なおきんの「オススメ記事を加えた記事を、カテゴリー事に分けてご紹介します。 自分の記事はあまり読み返すことのないぼくですが、それでもこれら「50記事」については、それでもたまに読み返すことがあります。 そのときつい、加筆・修正したい誘惑に駆られちゃいますが、「いただいたコメント」と矛盾してしまうとマズイので、そのままにしてあります。
バックナンバーを参照する際に、「インデックス」としてご利用ください。

▼ 心が「元気がない」ときに
ダレだって落ち込みます。 ハッキリと理由あって落ち込むこともあれば、ただ漠然と落ち込むこともあるでしょう。 ぼくもけっこう「打たれ弱い」ところあって、へなへなと力が抜けるほど落ち込むこともあります。 それが「反省」であったり、「産みの苦しみ」的なものであれば、避けることもできないでしょうが、「一度」落ち込むと本来無関係であるはずの、他のことへと連鎖してしまうのがコワイところです。 行き着くところは 「自己否定」。 自暴自棄になる前に、ちょっとこれらの記事を一読されてはいかがでしょう? あなたがいまそこにいるのは、ちゃんと「意味がある」のですから。

▼ カラダが「元気ないとき」に
「いつまでも若く健康でありたい」 というのは、加齢と共にますます強まるのではないでしょうか? さらに、「体型や顔がたるんでいること」に気がついたりすると、「健康」であっても調子わるくなったり、とかしません? そんなときは、以下の記事を参考にしてみてはどうでしょう? 摂取する食べ物や飲み物、嗜好品以外に、現代病のほとんどは、「運動不足」と「酸素不足」に原因があるといわれています。 では、たった今からからさっそく・・・(笑)

▼ ブログの可能性
興味が湧くと、何でも「始めてみないと気が済まない」タチのぼくは、「ブログ」を無視し続けることは出来ませんでした。 そして「期間限定」でやってみたわけですが、これは想像以上に楽しかったです。 「つながる」ことで、「楽しいことが連鎖」していくさまをものすごく実感しました。 ブログがなければおそらく一生出会えなかったヒトタチも多かったと思います。 つくづく、「デジタル社会」は、「アナログ力」あっての社会だなあと思います。 ヒトとヒトとのコミュニケーションは、「アナログ力」です。 ブログを続けることで、「アナログ力」は飛躍的にパワーアップされるはずです。

▼ いつだって「青春」
今すごしている「一年」に比べ、10代〜20代前半の「一年」というのは、まるで「地球の公転速度がちがうんじゃないか?」って思うくらい、速度感がまったく別ものですね。 そういった速度感の違いは 「感性の沸点の違い」 だと、ぼくは思っています。 沸点の低かった若い頃(ああ、なんてオジサン的ないい方)を想い出して、少し無感動な今の自分を反省。 ここはひとつ、沸点を意識的に下げて、「一日一日をもっと大事に生きよう」と、思ったりします。

▼ ふだんのなおきん
あなたがそうであるように、ぼくにも生活があります。 ただぼんやりと過ぎていきがちな生活、これにスポットをあてて観察する機会を与えてくれるのがブログのいいところですね。 「今日はどんな面白い一日かな?」と、まるで取材するかのように一日を送ることが出来たりします。 そんな普段着の自分を、他のブロガーさん達と見比べることでまた、親近感とか共有感とかがでてくるものです。

▼ この人に会いたい
もともと「人間ウオッチング」好きなので、「この人は!」って思うといろいろと訊いてみたくなります。 でも他人が突然、「お話を聞かせてください」なんて迫っちゃうと、かなり引かれるでしょうね(笑) ウイッキーさんも苦労したと思います。 でもぼくは「ブロガーの立場」を利用して、こんなヒトタチにあって直接お話を伺うことが出来ました。 「ブロガーの職権乱用」なんてまわりからは責められそうですが・・・(笑) でもその結果、「イラ写最多閲覧回数」をマークした『なおきん、90歳に会う』をはじめとして、得難い記事が書けたと思います。 普通の人が普通に生きていることに感動できるのはまた、「自分も他人に感動させる人生」を送ることが出来るわけですね。 そう想うと、「今日をもっと大事に」って思えるから不思議です。

▼ なおきん的香港考察
はじめは「香港人ツッコミネタ」に終始しがちだった「イラ写」に一大転機がおこります。 それは「3月から4月にかけての反日騒動」。 「あいつらがオレ達を嫌うから、オレ達もあいつらを嫌ってやれ」的な、「憎しみの連鎖」がネットにあふれかえりました。 近隣諸国のやっていることは確かに不徳であり、腹立たしくもあります。 けれども、それを真に受けて「目には目を」的に反応する「そのもの」に、ぼくは危機感を覚えました。 相手の言葉尻をもじって攻撃することは子供でも出来ます。
"知ること"は「相手への攻撃材料」を得るために行うのではなく、「事実を検証して理性的な判断」を得るためのはずです。 「そんな思いや願い」が、ぼくの香港考察の転機となって、「前半」と「後半」のコントラストにつながったと思います。

▼ お腹が空いたら
比較的、「食事ネタの少ない」イラ写でした。 ブログとしてはテーマにしやすいネタですし、他のブロガーさん達もすでにやっていることだからと、あえて避けてきたところもあります。 けれども、食べることはやっぱり楽しい。 「楽しいことは連鎖する」ならば、つい連鎖してしまえるような記事にしようと心に決めてました。 その後、「私も食べに行きました」、「ぼくも食べに行きました」と読者からの反応があったときは嬉しかったです。 「うれしたのしおいしい」です。

▼ アニバーサリー
「ブログを開設」するきっかけは些細なものでしたが、「続ける」ためには「目標」が必要でした。 「チョット自分には無理かな?」くらいの目標をたて、達成するためにあれこれ模索し実行するのは、けっこう楽しめるものです。 それと、「相手に感謝する」という行為は、これほどまで自分にパワーを与えてくれることを、あらためて知りました。 「自分だけのため」なら簡単に挫折することも、「感謝している相手のため」なら、がんばれちゃうものです。 読者のあなたにどれほどパワーをいただいたことか・・・。 「力」や「苦痛」でぼくを泣かすことは難しいですが、「感動」ならばポロポロいっちゃいます。 イソップ童話の「北風と太陽」が想い出されます。

この続きは、「東京イラスト写真日誌」で。
「開始時期はまだ未定ですが、東京へ引っ越して落ち着いたら再開したいと思います。 それまで、もう少しお待ちくださいね。 ・・・っていってるうちに忘れられちゃうんでしょ(笑) がーん・・・

「香港イラ写日誌」、最終回

開店準備のなおきん

「香港イラスト写真日誌」というブログを人知れず開設したとき、ぼくは 「小さな小さなお店」 を開店した気分だった。 小さなテーブルと丸椅子だけの急ごしらえのお店。 扱う商品も決まってなかったけど、「カンバン」をきちんと作り、チョット迷ったが「店主の顔写真」も隠さず掲げた。 見知らぬヒトに「何か新しいモノ」を伝えるとき、「イメージ」をボヤけさせてはいけない、と思う。 これはぼくのささやかなポリシーだ。

開店当時、数人がくれば満席だった「イラ写店」も、しだいに数十人、数百人と読者が増えていった。 「お店」はてんてこ舞いだったが、ぼくは楽しくて仕方なかった。 気持ちのいいヒトが次々にやってきては、「寄せ書き」のようにメッセージを残し、そこにぼくとの間で対話が生まれた。 コメントにはまた、 「お客さん同士の会話」 も広がり、「会話」も増えていった。

脈絡のない「記事」ではあったけど、ぼくはいつも「ダレか」を頭に浮かべ、その人に向かって書いていた。 その「ダレか」は、ここにコメントを残す「あなた」だったり、コメントは残さないけどちゃんとここへ来てくれている「あなた」だったりした。 古くからの友人の「あなた」であったり、さいきん気の置けない「あなた」。
こうして「みんな」や「全員に」ではなく、あくまでも「ダレか」に向かい、「そのひとの顔」を頭に浮かべながら、ぼくは夜を徹して記事を書き続けた。
だって、この世に 「その他大勢」っていう人物は存在しないし、「顔のない」人間なんて存在しないから。

イラ写を開店してから133日間。 その間、ぼくは普段より少し「積極的」な生活をおくることができた。 それは、ブログを続けるために必要な「ネタ探し」という目標があったからなのかもしれない。 普段立ち寄らない店へ行き、会わなかったであろうヒトに会う。 普段思い出さなかった過去を振り返り、読まない類の本を読む。
ぼくは思うのだけど、 「達成したい目標」があれば、ヒトはいつもより「積極的」になれる。 元来人見知りで臆病なぼくが、いつもよりほんの少し積極的になれたのは、「ブログを毎日欠かさず続ける」という「目標」があったからでもある。
「書く」という行為を「アウトプット」と定義すれば、ブログは自分に「蓄積されているもの」を書き出す行為といえる。 「香港」について書こうと思えば、「香港の知識」が自分に蓄積されていないといけない。 そこで「香港」を知ろうと「本を読む」、「誰かに訊く」、「いろんな場所に行ってみる」、「いろんなモノを食べてみる」、その行為は「アウトプット」があって初めて達成される「インプット」といってしまおう。
「アウトプットの機会」あれば、「インプットの機会」も増える。
「アウトプットの質」が上がれば、「インプットの質」も上がる。
「個人メディアとしてのブログ」があれば、ぼくたちはもっといろんなことを知ろうと思うし、いろんな場所に行こうと思うはずだ。 「誰かに旅の土産話」がしたくて旅に出かける動機があるように、ブログがあるから、出かける旅もあるかもしれない。 パソコンを始めようとマニュアルを読んでいるうちにイヤになったヒトも、ブログを始めようと、再びパソコンに火をともしたヒトもいるかも知れない。
ブログを通じて「出会う機会」や「得る知恵」が増えるのは、その意味で当然の成り行きかも知れない。


一方、誰かが「したり顔」で語ったり書いていたりするように、世の中はぼくが普段感じている以上に 「くそったれ」 なのかもしれない。 彼(女)らがいうように、世の中には思わぬ「落とし穴」があちこちに掘られていて、実際そこに落ちたぼくを笑う人達もいるのかもしれない。 けれども、そんな人達よりも「そうじゃないダレか」のほうがはるかに多いことを、ぼくは「イラ写」を通じて学んだ。 「楽しいことは連鎖」することを、ぼくは来る日も来る日も実感することができた。 むしろ世の中は、「ダレかのために生きたい」と願い、「楽しいことをダレかと共有」したくて仕方のないヒトタチの方がはるかに多いんじゃないか? と思う。
「イラ写に登場したヒト」もそんなヒトタチのひとりひとりだったし、「ブログランキング」で「ミラクル逆転一位」となったとき、それをまるで自分のことのように喜んでくれた読者のひとりひとりもそうだと思う。



あの時始めた 「小さなお店」 は、こうして育っていきました。
歩くことが楽しくて仕方のない「赤ん坊」のような「お店」でした。
「笑ったり」、「泣いたり」と、喜怒哀楽の激しい「お店」でした。
ネットなのに、ちっとも「無味乾燥的」じゃ、ありませんでした。
むしろ日常よりも、「人間くさいお店」でした。
「記事本文」よりも、「コメント」が長い「お店」でした。
その意味で、「店主」よりも、「読者」が主役の「お店」でした。




いまアタマの中では「蛍の光」が流れています。



ご来店いただき、まことにありがとうございました。
開店以来、133日間休まず営業を続けて参りましたが、本日をもちまして、「イラ写香港店」は一切の営業を終了させていただきます。

ご来店いただき、まことにありがとう・・・
さようなら








またどこかで、「あなた」と会えることを、
とてもとてもとてもとても
楽しみにしています。




もういちど




こんなちっぽけな、「お店」 を最後の最後まで盛り立ててくれて、ほんとうに、ありがとうございました。






涙、涙、涙 ・・・・











あれ・・・・




なんだこれ?
ぽちっと
すんのかな?

香港のきっかけ

スーツケースとなおきん

いまこうして窓からのぞむ香港島。 林立する高層ビルの夜景を眺めながら、ぼくはふと、定められた運命に従おうともあらがおうともせず、ただふらふらとさまよい「ここ」へたどり着いた、ある30後半の日本人男のことを想い出す。
ぼくのことだ。
2000年の春は本当にいろんなことがいっぺんにやってきて、ぼくの顔を左右にはたき、足を払い、尻もちをつく場所には穴まで掘ってあった。
ドイツから出張で香港へ来たのはそれが初めてだったが、「香港 - 台北 - 東京 - フランクフルト - デュッセルドルフ」、長く遠い出張が終わりやっと戻った自宅には、待っているはずの妻(ドイツ人)がいなかった。いや、妻は「そこ」にいた。 7時間の時差を越え、シャワーを浴びる気力もないまま倒れ込むベッド。 その縁に座り、彼女はぼくを待っていた。 しかし「おかえり」の代わりに、彼女が用意していたのは「涙」だった。
彼女は泣いていた・・・
しずかに押し殺していた嗚咽は、やがて大きくうねり、ぼくの眠気を吹き飛ばした。 ぼくは押し黙ったまま、彼女が泣きやむのを待つしかなかった。
「ごめん、やっぱり、こんど、話すわね・・・」
結局彼女はそういうだけで、立ち上がるとフロアスタンドの明かりを消し、静かに寝室を出て行った。 ドアの閉まる音。 少し経ってから、遠くガレージから車が出るエンジン音が耳に届き、やがて消えた。

それから3日間、妻は家には戻らなかった。
3日後、見たことの無い服を着て彼女は再び現れた。 そして泣きながらぼくに「別れ」告げた。 結婚してから14年、知り合ってから16年の月日が流れていたが、「別れ」はそんなふうにいとも簡単にやってきた。 取り残されたぼくだったが、結局、妻からの「別れ」を受け入れることにした。 2週間後のはずだったトルコ旅行は、電話でキャンセルをいれた。

十数年ぶりの「ひとり暮らし」がこうして始まった。
当時務めていた会社、そこの社長はぼくが尊敬してやまない人だったが、ぼくがアジア出張に出かけている間、新たに東京から派遣されてきた男とそのポジションを交代し、日本へと帰任していった。 新社長は、これまでぼくが作ってきたスキームを、ことごとく壊していった。 発芽中のビジネスをつみ取り、ぼくが大事に育てていた業者とのパートナーシップを反故にしていった。 彼は彼のやり方があったのだろうけど、それはあまりに近視眼的すぎた。 そして悪い意味で「東京すぎた」。 立場を失ったぼくは、「ここから」も去ることにした。 (結局この社長はわずか数ヶ月で親会社から解任されたが、時すでに遅く、ぼくが辞表を叩きつけた数週間あとのことだった。)

ぼくの住んでいたデュッセルドルフの街は、景色こそ変わらなかったけれど、確実に以前のそれではなかった。 延べ12年も住み続けた街にはちがいない、しかしどこかその風景は急によそよそしく感じられ、ぼくを拒んでいるようにも思えた。 そう、気がつけばぼくは「招かざる客」となってしまっていた。

そんな折り、ぼくは4月の香港出張中に知り合った「相棒」の言葉を想い出していた。 「相棒」は香港9年目の駐在員だったが、ちょうど独立を決意し、「ある香港グループ企業の役員」として迎えられたばかりだった。 そんな彼は、香港島を東に走る車の中で、
「"ここ(香港)"で、一緒に暴れてみませんか?」
と、ぼくに声をかけてくれていた。 初めて会って、わずか24時間後のことだ。 いっぽう「時」同じくして、地球の裏側のドイツの自宅では、奇しくも妻が 「ぼくとの別れ」について、ひとり思い悩んでいたにちがいなかった。

「運命の扉」とは、そんなふうに「ひらいたり」、「とじたり」する

ぼくはドイツを出ることを決心し、「相棒」にメールを出した。
そのことが、定められた運命に「従ったもの」なのか、「あらがったもの」なのか、そのときのぼくには 考える「余裕」も「選択」もなかった。

こうしてぼくは、「メールひとつ」で初めて香港に出張し、「メールひとつ」でドイツを去ることになった。

そしてあれから4年半経ったいま、


今度は、香港を出ていこうとしている。



着たときとは違う 「スーツケース」 をもって
「入り口」とは違う、「出口」へと向かう・・・




次回は、「香港イラスト写真日誌」の、「最終回」です。

日本の男が元気ない

日本の男が元気ない・・・。
日本へ電話すると、ことごとく相手が元気がない。 なんか後ろ向きな話ばかりで、こちらの生気が吸い取られる思い。 また、香港へ出張に来ている日本人も一様に元気がない。 香港の湿気と冷房に文句ばかり言っている。 肝心の商談については、責任のない発言ばかりでうんざり。

「時間がなくてねえ」 (じゃ、作れよ)
「私の一存では決められないので・・」 (なら、担当おりろ)
「うちはまだまだ不景気でして・・」 (毎年言ってるじゃないか)
「持病の通風が悪化してねえ」 (治せよ)
「ズボンのベルト、あな三つ分太りました」 (運動しろよ)

そんなのばっかりだ。
ヤメテくれーって思う。 東京行ったら「ぼくもこうなっちゃう」のかな?と恐くなる。 こうして、「うまくいかなかった」時のために、言い訳考えながら満員電車に揺られて出勤し、「やりたいこと後回しにしたまま」 終電でぐったりしたままネクタイをヨダレで汚すのかな?

そのくせしっかり、「したり顔」。
「あなたは海外が長いから、現実が見えてないんです」
「あなたは常識をお忘れのようですが・・・」



ほっとけ!と思う。



つーか、「元気がない」のは、何を隠そうぼくでした・・・。



「みなさん励ましのぽち」を・・・
ってもう参加してなかったんだっけ?
 

なおきん、俳優と会う

香港明星と会う

前回、「日本人になりたい」でインタビューをさせてもらったコニーさんの紹介で、香港の男優さんとインタビューさせてもらうこととなった。 とはいえぼくは、大の「芸能界オンチ」。 日本の俳優やハリウッドスターですらろくに知らないぼくにとって、「香港明星」とのインタビューは、身の程知らずにもほどがある。

けれども、「だからこそ」 明星ファンの方達とは違った接し方も出来るのではないかと思ってみる。 初めて人と会うとき、むしろ余計な先入観はじゃまにしかならない。 ましてや相手は香港アイドルのひとり。まぶしすぎては、相手をろくに観察できないだろうから。

ナッツフォードテラスの一角にある新装オープンされたカフェバー。 通訳役をかってでてくれたコニーさんと共にぼくは静かに彼の登場を待っていた。 突然降り出した雨に濡れた衣服が、効き過ぎた冷房の風に冷たく乾いていく。
やがて「彼」がまわりの視線を浴びながらやってきた。 グッチだかレイバンだかの大きなサングラスにオリーブ色のタンクトップ。 長身で筋肉質の身体、注目するなという方が無理だろう。 「彼」が目の前の席に着く。少しコロンが香った。

彼の名前は、陳山聰(JOEL CHAN)28歳。 予想以上にハンサムだ。 日本で実際、若い俳優さんに会っても、「そのへんの兄ちゃんと変わらない」、といった印象があったりするが、彼の場合はあたりの香港人に比べ、「圧倒的」にハンサムだ。
ぼくは簡単に自己紹介を済ませ、今回の目的について話す。 ドラマ撮影中で超過密スケジュールにもかかわらず、たかが「個人ブログ」の記事に快く引き受けてくれたことにお礼をいう。
JOEL: 日本人にインタビューを受けるのは今日が初めてです。 前から楽しみにしていました。
「ギャラなし」なのに、申し訳ないなあ、と思う。

::: カッコイイですね

JOEL: 香港人のファッションセンスは、まだまだ日本人に追いついていません。 ぼくは日本の雑誌を参考にしたり、実際日本に行ったりしながら勉強しています
ぼくはつい、自分の着ている服に視線を落とし、赤面する。 まずは、現在出演しているドラマと、撮影中のドラマについて教えてもらった。

  • 現在出演中のTVドラマ
    • 『奪命真夫』毎夜9:00よりチャンネル TVBにて
    • JOELさんは「弁護士役」として出演中
    • 番組情報はこちら
  • 現在撮影中のTVドラマ
    • 『布衣神相』(時代劇) 放送開始未定
    • JOELさんは、「主役」で出演とのこと
::: デビューはいつでしたか?

JOEL: 1996年、17の時歌手としてデビューしました

::: フルタイムの俳優としては、いつ頃から?

JOEL: 2000年頃だったと思います

::: 誰か目標としているスターはいますか?

JOEL: トニー・レオンです

::: これまで、印象深かった役柄は?

JOEL: ヘリコプターのレスキュー隊員です。 シナリオをもらい撮影に入る前の2週間、自分なりにみっちり勉強してから役に挑みました
これまでいろんなインタビューを受けて慣れているのか、彼の回答は手際よく早い。 コトバがつまずかずに出てくる。 あるいは、ぼくの質問が「普通」すぎるのかもしれない。

::: 香港のドラマは、日本のドラマを参考にしたりするんですか?

JOEL: はい。 日本の撮影技術や演出方法はスバらしいです

::: 香港の撮影は「早い」と聞きますが、一日何シーンくらい撮るんですか?

JOEL: 20シーンくらい撮ります。 午前中は屋外で、午後は室内というふうに。 さらに、ロケーションなどの効率性から、一日3種類のドラマ撮影をすることもあります

::: 一つのドラマを制作するのにどのくらいかかるんですか?

JOEL: 早くて1ヶ月、長くても2ヶ月です (1時間ドラマで20話)

::: 意外に短いんですね。

JOEL: 撮影は、朝の6時から翌朝の4時までかかることもあります

::: ひゃあ、そりゃまたハードですね

JOEL: 撮影時間が長い方がありがたいんです

::: そりゃまたどうしてですか?

JOEL: 「主役クラス」はどうしても長くなりますから

::: なるほど・・・、じゃ主役のドラマもあるんですね?

JOEL: はい。 いま撮影中のドラマもそうです

::: 素晴らしい、影響を受けた男優とかはいるんですか?

JOEL: はい、木村拓哉です。 彼は本当にスゴイ。 どの役もぜんぶ演技こなしている。 役になりきっていると思います。 香港では、木村拓哉はとても人気があります。
たしかに、「キムタク」の人気は香港でもスゴイらしい。 女性に限らずこうして男性、いや現役の男優ですら彼に憧れ、崇拝している。

JOEL: 彼は「男優」や「歌手」だけでなく、「ファッションリーダー」としても、香港で人気があります。 ぼくも彼のスタイルをとても参考にしています。 やはり「日本文化」は香港のそれに比べ、とても優れていると思います。 もう、ぜんぜん違う!
「彼」はインタビューを通して、そう「キムタク」を称賛し、ひいては「日本文化」についても繰り返し繰り返し、褒めたたえる。 ぼくが「日本人」だからか? あるいはそうかもしれない。 しかし彼は2001年、初めて日本に行った時のことを、興奮しながら話し始めるのだ。
JOEL: 日本には10年前から、ずっと行きたいと思っていました。 街はキレイで清潔。 人々もとても親切だし、やさしい。 以来何度か行っていますが、これからも毎年1回は必ず日本に行きたい。
「そうそう、日本は最高よねー」と、ぼくの横でコニーさんも一緒になって日本賛美談に加わってくる。 ぼくはなんだか照れくさい。 しかし、他国のヒトタチが日本を手放しで称賛する気持ちに、なぜかぼくは懐疑的になってしまう・・・。
JOEL: 木村拓哉のスタイリスト、「野口強」も香港では人気がありますよ。
残念ながらぼくは、スタイリストの名前までは知らない。 「彼」もコニーさんも、ずいぶんと「ぼくの知らない日本」を知っている様子だ。「野口強・・・!?」

1時間のインタビュー予定だけど、すでに1時間を超えてしまっていた。 ぼくは気になってそのことを伝えると、「彼」は、「だいじょうぶ、もっと日本人と話していたい」という。
JOEL: ぼく、日本人の友達が欲しいんです

::: じゃ、ぼくと友達になりましょう(笑)

JOEL: うれしいな、やっと「日本人の友達」ができた(笑)
こうして、ぼくたちは友達となった。 東京でも一緒に遊ぼうということになった。 90歳のおじいさんだって、ぼくの大事な友達だ。 友達なんて「理屈」じゃない。 「そう思えばいい」だけだ。

::: ところでこれからやってみたい「役」とかありますか?

JOEL: 「精神病患者」の役をやってみたいです

::: (驚) そりゃまたどうして!?

JOEL: 誰もやりたがらないし、そんなシナリオも少ない。 性格が偏狭で、狂気のある男の役、それをやってみたい
眼光鋭く「彼」はそういう。 チャレンジ精神が旺盛なのだ。

::: 香港では「ドラマ俳優」から「映画俳優」になるのは大変だと聞きます。 JOELさんはこれまで「映画俳優」をしたことは?

JOEL: ないです。 チャンスがあればやってみたいです

::: 日本から「出演依頼」とかないですか?

JOEL: ありましたけど、断りました

::: どうしてですか?

JOEL: AV映画だったからです(笑)

::: あーなるほど(笑)

JOEL: そういえば、日本の映画に出演したことがあります

::: (あるじゃないか) 何の映画ですか?

JOEL: 「雙子」という恐怖映画だったかと・・・、 知ってますか?

::: 知りません (誰か知ってたら教えてください)
::: 香港の芸能界について、「メリット」と「デメリット」を教えてください

JOEL: (少し考えて) 香港芸能のメリットは、市場が小さいところです
これこそが、ぼくが知りたいことだった。 日本に比べ香港の人口は20分の一。 そんな分母に対し、「TV局」や「芸能プロダクション」は、果たして採算が合うのか? 香港の芸能人は日本よりは絶対数は少ないと思うが、20分の一ではないだろう。 制作費を削るにしても限度もある、俳優さんの質を保っていくためにはやはり、「資金」が必要なはずだ。 「彼」はしかし、その市場の狭さをむしろメリットとして捉えている。 なぜか?

JOEL: 浸透しやすいから、はやく有名になれます。 ぼくの所属するTVBのドラマで、トニーやアンディも育っていきました
つまり、スターへとのぼる「階段が短い」ということか? 「チャンスの間口が広い」というのは、しかし競争もそれなりに熾烈なのではないか? 「彼」ほどのハンサム男は、それほどいないとはいえ・・・。

::: デメリットは?

JOEL: 新人タレントが現れやすいので、古い俳優がどんどん投打されます。 出演のチャンスがどんどん減っていきます
もちろん、香港に限らずどこの国の芸能界もそのリスクはある。 けれども香港社会はいい意味でも悪い意味でも、「移り変わりが早い」ように思う。 やはり人口という分母が少ないため、「じっくり才能が開花するのを待つ」ファンもまた少ないのだろう。 善し悪しかかわらず、やはり香港は「ベンチャー気質」なのだ。 芸能界も例外ですまされない。 かつ、日本に比べ圧倒的に視聴者が少ない香港、スポンサーから集められる金額も知れている。 果たしてどうやって採算を合わせていくのか?
JOEL: ドラマが放映されるのは「香港」だけではないんです
香港ドラマは、こうして制作されたドラマ放映権を、まずカナダに、そして、マレーシア、シンガポール、台湾へと売り、最後に香港で放映するのだという。 いずれも華僑や海外長期滞在者の多い地域だ。 なるほど、それだけの市場を鑑みれば制作費もペイすることがうかがえる。

「彼」の目は誰かに似てると思った。 あの、「ラストサムライ」でハリウッドでも認められた 「渡辺謙」だ。

渡辺謙
「彼」はひょっとしたら「名悪役」、「好敵手」のような役で、大当たりするんじゃないか? とそのとき直感した。 おそらく30代後半か40代前半。 若いハンサム男優特有の軽さがしっとりと落ち着き、男の芳香がわざとらしくなく漂い始めるころだ。 それまでに何年も待たなければならないが、「うつろいやすい香港の視聴者」がそれまで待ってくれるだろうか? いや、待っていて欲しいと切に思った。

「いつか東京の映画館で、JOELさんを鑑賞したいなあ」
ぼくがそういうと、「彼」はこくりとうなずき、照れくさそうな笑みがこぼれた。

▼ インタビューを終えて

ハンサム男優がとなりだと、つい気張ってしまう「なおきん」。 ばかだよねー。JOELさんは、とてもさわやかな香港青年。日本のサブカルチャーを愛し、日本人のやさしさを称賛してやみません。 「でも、日本人男性はスケベですね」 ておい、なんでわかっちゃうんだよ!?(笑)

植民地にみる親日度

こんなとこりにも、日本の植民地だった

ぼくがずっと気になっていることの一つに、第二次大戦前から日本が植民地としていた国々や地域 (台湾、韓国、満州ミクロネシア、サハリン等) の「親日度」ってのがある。
「植民地政策はよくなかった」とか、「迷惑をかけた」などと、「謝罪しておしまい」ってな風潮に、「ちょっとまったぁ!」と挙手したくてしかたがない。 「日本は悪いことばかりしてました。 当時の"悪い日本人"に代わり、"いまの日本人はいい人"だから反省して謝ります」ってのは、要するに「あと出しジャンケン」じゃないか。 つまり戦後民主主義主観の「日教組教育」なり、「GHQ洗脳」なり、「当事国の政策」による「あと知恵」で、「あのときの日本や日本人」を某国と一緒になって責め続けていていいのか。 「いい人」には誰もがなりたいかもしれないけど、なにも先祖を踏み台にしてまで「いい人」には、ぼくはなりたくない。

香港やシンガポールといった「戦中(1941-1945)に軍事統治地域(つまり軍政された地域)」ではなく、それまでの「日本の戦勝」によって、清やロシア、ドイツといった国から割譲された前述の地域は、それなりに長い年月(15〜50年程度)、日本の統治を受けたり、親日政権を立てたり、あるいは日本そのものだったりした。 そんな地域のヒトタチは、そんな(戦後ではなく)当時の宗主国日本に対し、「いったいどんな思いだったのだろう?」とつい気になってしまう。

ミクロネシアカロリン諸島に「パラオ共和国」というのがある。 ダイビングのメッカとして、日本からも多くの観光客が訪れているという。 ぼくはまだそこへ行ったことがないが、ものすごく興味がある。 「かつて日本が委任統治していた地域のひとつ」として。
パラオ共和国」の独立は意外と遅く1994年10月、同年12月には国連にも加盟している。 それまでは国連の太平洋信託統治領として米国に統治されていた。 総人口2万人足らずのミニ国家だ。 香港に住む日本人より少ない。

パラオ共和国の位置

しかし1943年当時、ここの人口は3万人以上もいたそうだ。 しかも、そのうち「2万5千人は日本人だった」というからびっくり! それまでスペイン人やドイツ人に植民統括されていたこの島は、ろくな文化やインフラがなかったが、日本が他の植民地にしたように、1920年以降は日本人による「都市建設」が施された。 電気を通し、道路を整備し、島々の間には橋が架けられた。 数々の研究所が建てられ燐鉱石の採掘所、公学校や病院が次々に建てられ、野球場まで作られた。 市場経済を導入し、漁業、農業が定着させた。 マグロや鰹の加工生産という地場産業もこうして育っていった。 現地の人々に日本語や算数、公衆道徳が教え伝えられた。 通常欧米諸国がこうした植民地でやっていたのは、地場産業の搾取と、住民の奴隷化であったが、どうも日本人はそうすることになじまなく、本国からヒト・モノ・カネを惜しみなく投入し、まずは現地での自給自足を促し、それから日本に必要な産物を「貿易によって」本国へ供給していたようだ。 そのシステムは、日本の大手商社がいまでもやっていることに、どこか近いモノがある。いまよりもずっと貿易が不自由で、いまよりもずっと人種差別が横行していた国際情勢の中で、それは北は満州、サハリンから南はトラック諸島までを含む、当時の日本の経済・軍事ブロックの確立、つまりライフラインの維持政策でもあったのだろう。


▲ 米水陸両用戦車の残骸 (日・米戦闘の激戦の名残でもある)

結果、パラオ人は現在に至るまで世界でも有数の親日国家となった。 自分の子供に"ジロウ"や"キョウコ"といった名を与え、しかも名字も"ナカムラ"や"ヒガ"、"アオキ"と名乗っている。 日本の古い童謡も代々伝えられ、アメリカ軍に壊された神社なども現地のヒトタチによって再建された。(南洋神社) 独立時に制定されたパラオ国旗は住民投票によって選ばれたが、日本の国旗そっくりだ。 青地は海を表し、黄色の丸は、日の丸の「太陽」に対しそれをを映す「月」の意味なのだという。 なお、この「黄まる」はやや左にずれているが、これは「あまりにも日の丸とそっくりだと、日本に対して失礼だから」ということで、そうしたという説もあるほどだ。

▲ 「日の丸」によく似たパラオ共和国の国旗

戦後アメリカは、日本が作り上げたそれまでのインフラや産業をたたき壊し、パラオを「国連の援助漬け」にしてしまった。 「搾取」にせよ「援助」にせよ、欧米諸国がアジアやアフリカでしたり、していることは要するに、「原住愚民化政策」の一環だ。 日本がやってきたこととは全く違う。 しかしそうした「愚民化」も、パラオ国民の心にあった「愛日の想い」までは壊せなかったようだ。

▲ いまも「最高裁判所」として使われている「日本旧南洋庁

だのに、日本政府はまるで「季語の枕詞」のように、「アジアの人々に多大な迷惑を被らせ」たとして、謝罪し続けている。 その垂れる頭が再びもたげないよう某国政府(複数)は、さまざまなプロパガンダで押さえつけているが、(その某国民を含めた)そんなアジア人の想いをないがしろにしているのは、むしろ我々日本人ではないかと、ぼくは思う。

教科書も新聞も教えてくれない「ぼくたちの祖父の時代の日本」、謙虚に耳を傾けなければならない歴史は、「負の歴史」のみではないだろう。


【参考資料引用】パラオ政府観光局外務省地域情報