本当にあった不思議な体験

ポーランドで不思議な体験をした

反日デモ」があるにはあったが、香港人はやはり「親日」の方ではないかと思う。 町にあふれる日本製品HMVなど大型CDショップは、「日本人アーティスト」の独立コーナーはあるし、日本へ旅行する香港人は年々増え続ける。 またぼくたちのように、多くの日本人がここに住んでいる。 「距離が近い」というのも、日本の存在感に役立っているのかもしれない。
東欧諸国の中ではもっとも「親日」といわれるポーランド。 香港と違い、平均的日本人にとっては少し距離感を覚えるかもしれない。 けれども例えば、"ショパン"と"キュリー夫人"はポーランド人。 といえば、少しは「親近感」を覚えるてくれるだろうか?
では、「なぜポーランド親日なのか?」と言われれば、ぼくが思いつくだけで3つほどある。 ひとつは「日露戦争で日本が勝ったこと*1。 そして二つめは、ロシア革命のあった1917年当時、日本赤十字社日本陸軍が協力して、シベリアに残されたポーランド孤児765名を救出し、日本に連れ帰って母国へ送り届けたこと。 三つ目は、1939年、今度は同盟国ドイツを裏切ってまでも、ポーランドナチス抵抗組織を、ナチスの捜索から何度も救った。 社会主義政権がなくなり、民主国家となってからは、ポーランド人はそのことを学校で教えすら、した。
ぼくらは、なぜかこういう「日本が他国へしたことの美談」を歴史教科書で習わない。 だから、いつも海外でとまどってしまう。「なぜ、この人達は親日なんだろう?」と。
ポーランドでひとり旅をしている間、途中何度も「シナ人か?」と訊かれ、「日本人だ」と答えると、とたんに表情がやわらかくなる瞬間に遭遇した。 ある日ぼくは、「アウシュビッツ」へ行こうと、ワルシャワからクラコフ行きの夜行列車に乗車。 そこで、ワルシャワへ「お上りさん旅行」をしていた若い連中に出会った。 "ヤポンスキー(日本人)"以外のポーランド語をぼくは知らないが、それだけで、コンパーメントで酒盛りがはじまるのだった。 そのうちのひとりは、「自分に買ったはずの"ワルシャワの歴史"という写真集」を、気前よくぼくにプレゼントしてくれた。 丸々と太った人なつっこい笑顔、ぼくは彼に、「サンキュー・サンキュー」と何度も言いながら、「ポーランド語の"ありがとう"ぐらい知っとけよ」、と自分を叱った。

ポーランドの古都、クラコフについたのは朝の4時。 それでも、駅の食堂は早くも、これから一仕事の労働者たちでいっぱいだった。 3月終わりのポーランドはまだまだ真冬のように寒い。 ぼくは、ほくほくと湯気立つ"酢キャベツのソーセージ煮込みスープ"を、労働者に混じって食べてみた。 不思議そうに周りの男達はぼくを見る。 ライ麦パンをくれるヒトもいる。 スープは美味しくはなかったけど、とても暖かい気分になった。
駅構内で、オシビエンチム(アウシュビッツポーランド語名)へ行くための方法を訊いて回る。 何しろ朝の5時前だから観光局も閉まっている。 少し途方に暮れてみたものの、親切な白タクのおじさんにあっけなく出会ってしまう。 おじさんは、ちょっとおかしなドイツ語を話す。 「10米ドルで、アウシュビッツと往復するよ。ビルケナウも連れてってあげるよ」という。
異常に安い。 なにしろここからアウシュビッツまでは50kmもあるのだ。 クラコフと往復、ガイド付きが、たったの1500円*2ということらしい。

アウシュビッツの位置 (周辺地図)

こうして、朝靄のけむるポーランドの田舎道を、ぼくはおじさんの小さなフィアットアウシュビッツへ向かう。
▼ おじさんの白タクFIAT126(ポーランド国産、同型)

途中、ミルク缶を積んだ馬車とすれ違う。 「"フランダースの犬"の世界だ!」とぼくは、ひとり興奮する。 そんなぼくを、おじさんは察してくれたのか、馬車をひくオバサンから、とれたてのミルクをカップ一杯わけてもらい、ぼくに差し出した。 「ほら、ヤポンスキー、これ飲め」と。 あわててポケットからコインをさがすぼくに、おじさんは、手を顔の前でひらひら振って見せた。

まるで中世以降時間が止まったような風景の中を、小さな車の助手席から眺めているうちに、目指すビルケナウ(アウシュビッツ第二)収容所へ、「よっこらしょ」といった感じで到着する。 時計を見ると6時半。 当然、開場までにはだいぶ時間がある。門は固く閉ざされ、人の気配は全くない。 しかしおじさんは、当たり前のようにそばの小屋へまっすぐ歩き、ドアをどんどんと叩いた。 中から眠そうな守衛の男が出てきて、その門をがちゃがちゃと開けてくれた。 その門こそ、あの「死の門」*3といわれた、強制収容所の入り口であった。

そこでぼくは、ちょっと不思議な体験をした。

まだ朝靄の晴れきっていない広大な収容所、ぼくは死の門をくぐり線路と鉄条網の間を、ただまっすぐ歩く。この鉄道は、ヨーロッパのあちこちから150万人ものユダヤ人を運んできては、ここに収容していった。 そして次々と虐殺していった。一見、駅にも見えるこの建物は、二度と生きては帰れない、「命の最終駅」であったのだ。アンネ・フランクのお姉さんと母親も、確かここに収容されたと記憶する。
▼ 収容所敷地内から、「死の門」を眺める

▼ 敷地内の鉄条網

異変に気づいたのは、歩き始めて10分ぐらいたった頃。
奥へ進むほど、霧は濃くなっていったが、ついに乳白色の濃霧のために10m先すらもよく見えない。 雲の中のようにあたりはのっぺりと平面的で、方向感覚も平衡感覚もマヒしそうになる。 百数十万人もの人間達が殺された収容所敷地内の真ん中を、たったひとり、ぼくは歩く。
いや、どうやら「ここ」は、ぼくひとりではないようだった。
ミルク色の霧の向こうで団体客だろうか、ゆらゆらと影が重なり動いているのがかすかに見える。 砂利の上を歩くぼくの足音に混じり、ざわざわと女性や子供の声がかすかに聞こえる。 そして、ぱちぱちと、薪(たきぎ)を燃やすような乾いた音。 「こんなところでたき火?」 ありえない。 そう、もちろんぼくはわかっている。

「ここ」に、ぼく以外の人間はいやしないことを。
まわりにいる群衆は、「この世のモノではない」ことを。


敷地内の案内を申し出たおじさんに、「ひとりで歩きたい」と断ったことを今さらのように後悔した。 霧はどんどん濃くなる、空気はまるで水中のように重い質感で、カラダが押しつぶされそうになる。 "何者か"がぼくの肩に触れる。

心臓が止まった。






おじさんだった。 
ぼくが道ばたでうずくまっているのを見つけ、あわてて駆けつけたという。 言われたとおり、確かにぼくはうずくまっていた。ふと気づくと、さっきまでぼくを包んでいたあの濃霧はなくなっていて、普通の朝靄にもどっている。 思わず来た道を振り返ると、遠くに小さく「死の門」がぼんやりと見えた。どうやら、あのミルク色の霧はぼくにしか見えなかったようだ。 でないと、あの位置からおじさんが、ぼくがうずくまっているところを視認できるはずがない。 しかも、ぼくはまっすぐモニュメントに向かって歩いていたはずだ。 途中、うずくまった記憶はどこにもない。
おじさんは心配そうにぼくの顔をのぞき込む。 ぼくは少し口角を上げて見せた。 おじさんは安心して前歯を見せた。 前歯が二本、抜けていた。

ミルク色の霧と「そこ」にいた人達。 彼らはやはり、「あちらの住人」で、60年後の今もまだそこを漂っているのだろうか?


彼らもまた、「親日」だったのだろうか?




 明日こそは話題は香港、応援感謝します

▼ アウシュビッツ収容所

アウシュヴィッツ−ビルケナウ強制収容所(KZ Auschwitz-Birkenau)はナチス・ドイツホロコースト施策に用いられた強制収容所の一つ。現在のポーランドオシフィエンチム郊外に位置する。広島の原爆ドームと並び第二次世界大戦による負の世界遺産として有名。現在は博物館として整備されている。
収容所の開所は1940年6月。最初の囚人はポーランド政治犯だったが、後にユダヤ人の大量虐殺センターとして機能し始める。このほか、政治犯、刑事犯、エホバの証人信者、ジプシーなどが主な収容者だった。
初代所長はルドルフ・ヘス(副総統とは同姓同名の別人)。第二次大戦後、ニュルンベルク裁判で死刑判決を受け、同収容所で絞首刑に処せられた。
【引用 : ウィキペディア

*1:日露戦争当時、ポーランドはロシアに領土を奪われていた。 同様にフィンランドやトルコなど、極東の小国が憎きロシアを倒したことで、励まされた国は多い。

*2:1986年当時の換算レート

*3:映画「シンドラーのリスト」やドラマ「白い巨塔」でも登場したから知っている人も多いと思う